隻翼
この世の人間関係には様々なカタチがある。
友人、知り合い、恋人、夫婦、仲間等々…趣味趣向や、好きな食べ物、好きな映画、その偶然の一致から一気に仲良くなった、なんて経験は皆にあることだろう。
合致する部分があればお互いの関係を良好に保つことができ、衝突もない。それは良いことでけして悪いことではないのだが、もしその関係を一生という長いスパンで見たらどうだろう。
同じ趣味やスポーツを一緒にやっている時は楽しいと思う、ただ、そこからさらに一歩進みたいとしたなら、「合う」部分だけを意識しているだけではより深い関係性にはなれないのではないだろうか。
少しの違いが気になりだし、違うことに合わせてくれないことに苛立ちを覚え、それまでの関係性が嘘のように瓦解してしまうことは少なくない。それは、その関係性が「一致する部分があるから」という理由だけの関係ということだ。
考え方が違う、価値観が違う、少しの綻びが、少しの衝突がすれ違いを生んでしまう。
「そうなったらお終いだよな」
とあなたは思っただろうか。このままネガティブな文章になっていくのだと思っただろうか。私が言いたいのはそういう事ではない。
考え方によっては、衝突するということはそれだけお互いがお互いにとって近しい存在だからこそ起こり得る。どうでも良い他人なんかとケンカなどしないだろう。
心ある人間同士、一生という長い時間を過ごしていて、なんの摩擦も衝突も起きない、なんてことはあり得ない。薄っぺらい関係ではないからこそ起きる問題というものもある。
だが、そういう時、お互いが人間関係を保っていく上で「大切だな」と思えるところが一致していたなら。「ここは外しちゃいけないな」という価値観が一致していたなら。それは「対話」に繋がっていく。相手の想いを台無しにしないよう、相手の気持ちを萎えさせないよう気遣いあって意見を交わせたならどんな問題も解決していけると思わないだろうか。
全てのボタンを寸分違わず綺麗に掛け違えずにいることが正しい生き方なのかもしれない。衝突がない、だが言ってしまえば「それだけの関係性」。それをあなたは「幸せ」と思えるだろうか?少なくとも私はそうは思わない。
私は、幸せな人生とは、関係性とは、掛け違えてしまったボタンさえ愛せるかどうかなのではないか、と思う。
お互いにどんな配慮が足らなかったか、もっとこうすればよかったね、そんな会話ができる人間は一生のうち1人出逢えるかどうかだとは思わないだろうか。
掛け違ってもすれ違っても何が大事だったか、意見は異なっても大切な部分は一緒、大切なのは何もかも同じでなくていい、2人が共にいる事、共に歩んでいける事なのだと、それに気付けて大切に出来る人生は幸せだ。
出逢うまでの人生の中でお互いが様々な経験を積んできて、2人の何もかもが一致することなどそもそもあり得ない。そんな事はお互い分かっているはず。違うものを持っているからこそ、一致する部分がある事に歓びを感じたのだという事をひとは忘れがちである。
なら、どうするか。なら、どうしていこうか。
そんな対話を築く事の繰り返しを「共に歩む」というのだと思う。
自分が持っていない部分を相手が受け止め支える、逆に自分も受け止め支えられる、
「仕合わせ」こそ「幸せ」
なのだと気付けたら、もう2人に怖いものなんてない。