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北海道の大学野球_1965年~


■1965年(昭和40年大会)

北海道大学が初優勝、北海学園大学の11連覇を阻止
優勝:北海道大学 準優勝:北海学園大学
出場チーム:10チーム 開催:中島球場

北海学園大学硬式野球部HP掲載資料を参考に作成

全日本大学野球選手権大会:北海道大学0-9関東学院大学

■1966年(昭和41年大会)

北海学園大学が王座奪還
優勝:北海学園大学 準優勝:北海道大学
出場チーム:11チーム 開催:中島球場
前年までの10チームに道産業短大が加わる。

全日本大学野球選手権大会:北海学園大学2-6中京大学

全日本大学野球選手権大会:北海学園大学2-6中京大学

■1967年(昭和42年大会)

北海学園大学が連覇
優勝:北海学園大学 準優勝:北海道大学
出場チーム:11チーム 開催:中島球場

全日本大学野球選手権大会:北海学園大学0-2慶應義塾大学
※中日球場で開催

■1968年(昭和43年大会)

小樽商科大学が初優勝、札大・拓殖短大が初出場
優勝:小樽商科大学 準優勝:札幌大学
出場チーム:13チーム、開催:中島球場
前年までの11チームに札大、拓殖短大が加わる

チーム数増による影響か。前年優勝の学園と北大が同ヤグラに入る。ヤグラ別れた樽商は2勝して決勝進出。決勝の相手は学園・北大と思いきや、初出場の札大。1回戦で北大、準決勝で学園をくだす快進撃で決勝に勝ち上がってきた。決勝戦は樽商が貫録を見せたか、11-3で勝利。勝利すれば共に初優勝となる一戦であった。

全日本大学野球選手権大会:小樽商科大学0-4東海大学

■1969年(昭和44年大会)

北海学園大学が2年ぶりに優勝
優勝:北海学園大学 準優勝:道産短大
出場チーム:8チーム

優勝した学園大、準決勝で前年敗れた札大に12-6で勝利。迎えた決勝は
『先手を取る北学園大、しつように食いさがる道産短大、古豪と新鋭ががっぷり四つに組み、決勝にふさわしい好試合』『道産短大は一年生が主力の若いチーム、さいごまでみせた闘志は高く評価される』と評された一戦。(北海学園大学硬式野球部HP掲載資料からの引用)

「北海道工大と札幌商大が加わり札幌地区が8チームに増えたため、(札樽リーグが)全道大会の予選として行われるようになった。この年の地区代表は4チームで次年度から6チームという取り決め」

北海道大学野球部100年史より

◇札樽ブロック予選

産短大:6勝1敗
学園大:6勝1敗
札 大:5勝2敗
北 大:4勝3敗(代表決定戦勝利<北大11-3樽商>で第4代表に)
樽商大:4勝3敗
道工大:2勝5敗
札教大:1勝6敗
札商大:0勝7敗

全日本大学野球選手権大会:北海学園大学2-8日本大学

■1970年(昭和45年)

札幌大学が初優勝
優勝:札幌大学 準優勝:北海道大学
出場チーム:10チーム
※この年から明治神宮野球大会が始まる。

決勝は道産短大、道工大をくだして初優勝を目指す札大と樽商、学園大(道予選では5年ぶりの対学園戦勝利)をくだした北大による一戦。4-3、札大が1点リードして迎えた8回裏札大の攻撃中に「雨が一段と激しくなりノーゲームに。決勝はコールドやサスペンデッド適用がなく」(北海道大学野球部100年史より)再試合に持ち込まれる。翌日も雨、再試合は2日後の6月3日に行われ札大が初優勝を果たす。ノーゲームの一戦は僅差の展開であったが、再試合は札大が大量に得点を奪う一方的な試合に。中止、再試合でよくある流れのようにも思える。

◇札樽ブロック予選

東海大札幌教養部・北星学園大が新加入

<Aブロック>
道工大:4勝0敗
札 大:3勝1敗
学園大:2勝2敗
北星大:1勝3敗
札商大:0勝4敗
<Bブロック>
北 大:4勝0敗
産短大:3勝0敗
樽商大:2勝2敗
東海大:1勝2敗
札教大:0勝4敗
<優勝決定戦>
北大3-2道工大

全日本大学野球選手権大会:札幌大学6-1八幡大学
全日本大学野球選手権大会:札幌大学0-10福岡工業大学

◇明治神宮野球大会予選

札幌大学が初優勝、春・秋連覇
優勝:札幌大学 準優勝:北海道大学
出場チーム:15チーム

明治神宮野球大会:札幌大学1-8関西大学

◆1971年以降

1972年~から1977年にかけて、春は札大が実に6連覇。6連覇前の1971年は道産短大(現星槎道都大)、6連覇明けの78年は函大がそれぞれ優勝。79年から学園が春4連覇。札大連覇前後(学園連覇前)に楔のような形で、道産短大と函大が初優勝を果たしている。

その後、1983年に学園4連覇を阻んだのは北大。1984年以降、80年代の6年間は道都と札大がそれぞれ2回、学園と北海道東海がそれぞれ1回の優勝。

■1971年(昭和46年)

北海道産業短大が初優勝
優勝:北海道産業短大 準優勝:函大
出場チーム:10チーム

2回戦の北大-学園大は延長21回死闘の末、北大が勝利。

*2回戦から登場の函大が札大を破って決勝へ進み、準優勝。1972年から札大6連覇が始まるが、連覇前後に優勝する2チームが、この年に優勝・準優勝をしていたことになる。

◇札樽ブロック予選

<Aブロック>
札 大:4勝0敗
道工大:3勝1敗
樽商大:1勝3敗
東海大:1勝3敗
札商大:1勝3敗
<Bブロック>
北 大:4勝0敗
産短大:3勝1敗
学園大:2勝2敗
札教大:1勝3敗
北星大:0勝4敗
<優勝決定戦>
札大6-1北大

◇21回を投げ抜いて(斎藤馨手記からの引用)

その日は、北海道にしては珍しく暖かく風もない絶好の野球日和でした。昭和46年5月、全日本大学野球選手権予選対北大戦、新人投手の私は、今はなき中島球場のマウンドに立っていました。当時、北大は二人の好投手を持っており、なかなかの強敵で優勝候補の一角でした。一方、学園野球部は推薦制度の廃止と、新興札幌大学の進出で、部員不足に泣き、窮地に立たされていました。実は私も札大か学園か、進学する時に非常に迷った一人でした。そのわたしがなぜ学園を選んだかといいますと、理由は簡単で、すぐ試合で投げられるということでした。

しかし、それが甘い考えであった事はいうまでもありません。思いどおり、試合にはよく投げさせてもらいました。しかし、大学生のパワーはさすがで、出るたびにKOされ、思い上がった自分を力一杯叩きつけてくれたのです。とにかく出るて打たれ、ほんとうに大学で野球を続けていけるのだろうかと思ったほどでした。

ところが意外と早くその自信を持たせてくれる試合が訪れたのです。それが、延長21回を投げる事になった対北大戦でした。それも、全国大会をかけた重要な全道予選の2回戦でした。試合の前日、主将から先発をいわれて、今度こそはという気持ちからか、前夜、あまり眠れなかった事を思い出します。そして、当日がきました。その日は第1試合で、残念ながら先攻は北大てした。なぜ残念かといいますと、私は大学へ入ってからは、ほとんどのゲームで初回、しかも1回表は点数を取られていたので、できる事ならと思っていました。

さて、このゲームも案の定、初回簡単に2点先行されてしまいました。チーム全体にまたかという落胆とこれから何点取られるのだろうという不安な気持ちで、嫌なムードが流れたのはいうまでもありません。そういう立ち上がりでしたので、まさか延長21回のゲームになるなんて、誰一人として、想像できた人はいなかったてしょう。

それがどうした事か、2回からは私は立ち直ったのです。今考えても不思議なのですが一つのゲームの流れとでもいうのか、とにかく、お互いに0の行進か続いたのです。それまで自チームは北大先発三森投手に完全に押さえ込まれていたのですが、とうとう最後にチャンスか回ってきて、1点を取りなお2死三塁の一打同点という場面を迎えました。打者は、網走南ケ丘出身の新人今井(現日産コーチ)で、彼は甲子園経験もあり、大舞台には強い打者でした。そこで飛び出したのが、彼の身上である渋いバッティングでした。彼は追い込まれながらも、見事にライト前に弾き返し同点としたのです。その時の感激は今でも忘れることはできません。身体中か熱くなったのを覚えています。そして、この試合は絶対に勝つんだ!という気持ちでとうとう延長戦に入ったのです。

延長戦に入ってからの私はそれまでと違って、勝負を意識し過ぎたせいか、何度となくピンチを迎えました。そしてそのたび、この回を抑えれば勝てるんだ!と自分に言い聞かせて気力で乗り越えました。しかしそんな気持ちの張りもとうとう限界にきました。延長15回です。突然マウンドで指先に感覚がなくなったのです。まだ春先の試合、しかも、冬期の練習不足がたたったのです。正直あの時ほどもっと練習をしておけばよかったと思ったことはありません。

しかし、そういう自分を立ち直らせてくれたのが、当時の監督だった亡き田代先生でした。自分がベンチに帰って、指を暖めながら監督の顔を見ると、監督は、じっとグラウンドを見たまま、自分に声一つかける事なく、おれは知らんという顔でした。正直私はその時、冷たい人だなあと思いました。しかし、今考えてみるとそれは間違いでした。当時、自分の他に投手は2名いましたが、同期の大林君は肩の故障で投げられず、三浦先輩は試合に出ていたので、到底投げられる状態ではありませんでした。そう考えると、あの時ほど、田代先生の監督生活で辛かった事は、なかったかと思います。なぜなら北海学園を率いて名門野球部に育て上げ、輝かしい成績と限りない名選手を育てた先生が戦力不足で代える選手もいなかったのです。監督として、これほど辛い事があるでしょうか。しかも、体力不足の新人投手に頼らなければならなかった先生の心中を察するといた堪りません。

そういう苦しい状況の中で先生は何一つ動ずることなく、気迫のこもった目で選手に無言の激励をしていたのです。私は先生の気迫が乗り移ったかのように、また体が自然に熱くなってきたのです。そして、こうなったら何が起ころうとも、最後まで投げてやるんだ!という気持ちになったのです。そして、それまで援護をしてくれなかったナインに対する怒りにも似た気持ちもなくなり、またたんたんと投げられるようになったのです。無心になるというのは、あの時の心理なのかもしれません。

結局ゲームは21回表、相手投手に決勝打を打たれ、延長21回3対2で負けました。今考えると、あの試合ほど、色々な意味で自分の人生にとって大きなものを残してくれた試合なかったように思います。21回投げ抜いた経験は、筆舌に尽くしがたいものがあります。

最後に、当時のナインのみなさん、どうもありがとうございました。21回投げ抜けたのも、みなさんの守りがあったからこそです。この誌を借りて、お礼申し上げます。

天国にいる田代先生へ
今、私は粟津監督の下で助監督として、グラウンドに立たせていただいています。先生の作り上げた北海学園の伝統を守り、教えを忘れず微力ながら全身全霊を尽くして、がんばっていくつもりです。どうか見守っていてください。

引用元
『巧球巧捕巧打 北海学園大学硬式野球部三十年の歩み』


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