08 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【5.箱舘諸術調所】

前章を受けて「母」についての語りが続きます。そして函館の女性の気質が生まれた背景について話が及んでいきます。

■兄伝一郎に伴い蝦夷地へ

『母、きんは静岡藩士軽部伝一郎の妹でした。江戸詰めだった伝一郎が、遠い蝦夷地におもむいたのは、当時幕府が蝦夷地在勤を奨励し、蝦夷在住の者に一ヵ年十五両、エトロフ行きには四十両の特別手当を下賜するなど、外夷の警備と、蝦夷地開拓を希望する藩士を求めていたことがきっかけ』また『伝一郎は倒幕派と佐幕派が入り乱れてかまびすしい内地の情勢に厭気がさし、伝え聞く新開港地、箱舘に希望を託し』蝦夷地移住の理由を聞いたと記されます。

■母・きんを驚かせた箱舘の衣と住と言葉

『たどりついた箱舘が、江戸で想像していた蝦夷地の荒涼とした原野にある未開の地とはまったく違うのに、誰もが驚くです。』と『そのころの箱舘の賑わい』が紹介されていきます。そして、とねの母・きんもその驚かされた<誰も>のうちの一人でした。『港に停泊する蒸気船や帆船の数の多さ、それらの船舶にはためく、近、赤、白の英国旗を始め各国の色どり美しい国旗に、母は目をみはりました。その当時の大町などの盛り場では、箱舘に上陸した外人水兵たちがこの町の女たちと気さくに交わす手ぶり身ぶりの面白さに「これが、同じ日本の女たちか」と目をむき、夷人夫妻が手を組んで町を歩く異様さに、「男女、七歳にして席を同じうするなかれ」と、言い含められて育った母は驚かされるばかり。』『広東人の三つ編みの弁髪、黒人水平の漆を塗りこめたまうような黒光りの顔、町の人々が「ウエルカム・ホテル」などと呼ぶ、山ノ上の外人揚屋も、江戸にない風物でしたから、「これが同じ日本の国なのか」と異国にでも来ているような気分になった』と母は語ったといいます。『また母は女らしく、この街の商家、ことに問屋の内儀たちの派手な装いや、大呉服店の品数の豊かさに目を見張った』一方で『女たちの着物の贅沢なわりに、おおかたの町民たちの家屋が貧弱なことにあきれました。(中略)大火の多いこの街では、家を立派に建てたとて、たちまち大火で灰になる。そのような苦渋を重ねたすえに、「家は二年持てばよい」などと、焼失するのを覚悟のうえの建築なので、金をかけ、手間暇をかけた家なぞ建てなかったのです』と、その理由を知るに至ります。『母の驚きは、まだ続きます。箱館の人々の日常会話は言葉が荒く、慣れぬうちは、男はもちろん女たちでさえ、まるで喧嘩しているように感じたと。「こったらもの、投げれ」投げるのかと、はっ、とすると、「こんなもの、捨てないさいよ」という意味だと知って、ほっとしたものだった、と笑って話すのです。』こうした言葉遣いとなった理由を『戸外の、ことに洋上で洗い風波にさからって漁業する漁夫たちの声は、波間に消えぬほど勢よく、浜で働く女出面たちもまた、一刻を争う仕事ばかりとあって、しぜん威勢のよい話しぶりになってしまったのでしょう。』と推測します。

■再びの驚き

やがて、周囲の勧めもあって、僧法恵と、妹きんの縁組が決まり、安政六年(一八五九)『箱舘を囲む山々がいっせいに新緑に色づきはじめ、梅や桜の固い蕾がようやくふくらみ始めた、早春』願乗寺で仏式により簡素に挙式。『母きんが父法恵から、「箱舘には、全国で評判高い江戸の昌平黌にも匹敵する学問所“諸術調所”がある」と聞かされ、「こんな北の果ての港街に」と、驚いた』ことが明かされます。衣、住、言葉づかいに続いての驚きだったようです。そしてこの母の話は『私の記憶の底に沈殿していたようですが、後年、このことを想い浮かべるようになろうとは、思いも及ばなかったのです。』と、ジョン・ミルンと結婚した後の出来事に際し、記憶の底から浮かびあがってくることになります。

■天の川ならぬ津軽海峡を越えて

この章後半は当時箱舘で行われていた七夕にまつわる思い出が語られます。『七日の夜、さまざまな絵柄に彩色された額燈籠は、ともされたろうそくの灯に絢爛と輝き、幾百もが波に揺れながら、茄子紺色の暗い夜の海をさまよいつつ、沖へと運ばれ、やがて星のように小さくまたたきながら、なお遠くへ流され、なかには波間に消えゆくものもあって、ほとんどの灯が消え去り、わずかに残ったほのかな灯は、海の星ともみまがう美しさ。そのころ夜空には無数の星が輝きはじめます。』美しい文章です、さらに続きます。『海に突き出た箱舘の街は、まるで岬のよう。頭上には体ごと包みこまれてしまいそうな広い広い空が広がり、無数の銀河の星々もまた、いちだんと冴えた光をきらめかせ、祭りの賑わいの酔いがまだ尾をひいて、清々しい想いに身も心も誘いこまれていくのでした。私はいつか牽牛織姫のように、天の川ならぬ津軽海峡を越えて、素晴らしい男(ルビ:ひと)が会いに訪れてくれる日を夢みるようになっていました。』後に人生を共に歩むことになるジョン・ミルンとの出会いを無意識の内に希求、予見しているかのようなとねの心の内が語られ、章がとじられます。


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