さらば愛しき女よ その1 レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳
■要約(BOOK&RUN)
銀行強盗を犯して監獄帰りの大鹿マロイは、8年間会えずにいるかつての恋人ヴェルマを探す最中、再び殺人を犯してしまう。偶然その場に居合わせたマーロウはヴェルマを見つけ出そうと捜査を開始する。そこにリンゼイ・マリオなる人物からマーロウへ用心棒役の依頼が舞い込む。用心棒役をしくじったマーロウはマリオの背後を探るうちに、街を牛耳る深部へと入り込んでいく。そして、マーロウが最後に見届けたものは、マロイとヴェルマの悲劇的な再会だった。マロイとヴェルマの顛末に感慨を漏らすマーロウに掛けられた言葉は「それは感情にとらわれた考えかた」の一言。それでも、晴れあがり、遠くまで見とおせそうな空の彼方に、失われた二人の姿を探すマーロウであった。
□参考:要約(文庫版・巻末に掲載)
出所した男がまたも犯した殺人。偶然居合わせたマーロウは警察に取り調べられてしまう。
□参考:要約(「さよなら、愛しい人」村上春樹訳、単行本カバーに掲載)
「ヴェルマはそこで歌っていた。赤毛でなあ。レースのついた下着みたいに可愛らしかったぜ。俺たちは夫婦になろうって話してたんだが、そこで俺はハメられちまった……」 刑務所から出所したばかりの大男、へら鹿(ムース)マロイは、八年前に別れた恋人ヴェルマを探しに黒人街の酒場にやってきた。しかし、そこで激情に駆られ殺人を犯してしまう。偶然、現場に居合わせた私立探偵フィリップ・マーロウは、行方をくらましたマロイと女を探して紫煙たちこめる夜の酒場をさまよう。狂おしいほど一途な愛を待ち受ける哀しい結末とは?
■内容を振り返る為のキーワード
1:エンジェル・ケーキの上の一匹の毒蜘蛛のように/俺はヴェルマに八年会ってねえんだ/
2:彼の声は、森の中で一人花をつんでいる男のように聞こえた/からだがでかいんで、大鹿マロイっていわれてる/モンゴメリーさんも、ヴェルマがどこにいるか、ご存知なかったんだ/
3:マロイは、あの男の顎を折ることを予告してくれなかったんでね/ヴェルマを探すんだよ。マロイは彼女を探している。事件はそこからおこったんだ。ヴェルマを探してみた方がいいぜ/この事件から好奇心を除いたら、何も残らない。しかし、正直のところ、私は一ヶ月、仕事をしていない。金にならない仕事でも、仕事がないよりはましなのだった/
4:黒人は無言のまま、市民名簿をとって、私の前に押してよこした/あまりにもうまく、ことが運んだようだった。すらすらと運びすぎたようだった/
5:金は記憶をよびおこさせるものだからね/仔猫が見せるような疑惑の表情/疑惑が咽喉のかわきと戦って、咽喉のかわきが勝った。この勝負はいつも、きまっていた/彼女はにやにや笑った。洗濯おけの方がかわいいだろう/オフィス街の昼休みの時間にはいくらでも見られる顔/
6:道化師の娘の写真/密告した奴がいるにちがいない/何だか知らないが、君がいましゃべらなかったことさ/
7:君を信頼できる人間として、ぼくに推薦したものがいるんだ/ぼくだって、働かなければ、食えないぜ/
8:君は奇妙なユーモア精神を持っている/いまになって、用心棒とは、遅すぎますね/私はやはり、その微笑みが気に入らなかった/歯医者が金歯の型を取るように/ぼくは何もしないで、百ドルもらうんだ。頭を殴られるのなら、ぼくが殴られるべきだ/これで、今夜は申し分のない晩になった、少なくとも、このときほでは/
9:君がここを選んだのではないだろうね/誰が殴ったのかしらないが、私の頭をうしろから殴ったものがあった/
10:それは私の声だった/とにかく、あと一年ぐらいは使える頭なのだ/二十分間を安らかに眠っているあいだに、仕事をしくじって、八千ドルの紙幣を失った/ありふれた小さなクーペ/マンドリン線のような、緊張した笑い声/しゃれがいえるのねー屍体置場の番人みたいにね/
11:坂道を半分ほどのぼったところの右側に/ウェーブは消えていた/こんなことをするのが好きな人間がいるんだよ/細長いロシア・タバコが三本/立派な用心棒だったわね/それがぼくにはわからない/新しい一ドル紙幣の裏のように青ざめた顔色のまま/
12:やわらかな灰色の髪と冷たい眼を持った五十がらみの痩せた男/心に残ってる声というものがあるものだ/タバコは三本ともなくなっていた/余計なことに頭を突っこむな/
13:肝腎なことをいわないじゃないか/もとは人間だったがね/猟犬の血が流れているんだわ/君の赤い髪と均整のとれたからだを信じたというんだね/牧師が教会の窓に穴をあけて飛び出したくなるような金髪/男の望むものはなんでも持っている女/ダライ・ラマを眺めているよううっとりとした表情で/どんな小さな証拠でも/
14:これは証拠なのであろうか/私は静かにその紙を伸ばしてみた/すべての患者に共通のものがある/
15:突然、頭に浮かんだことがあった/
16:このへんも、物騒になったもんだね/毎月、一日に書留が来るんだよ/鶏がしゃっくりをはじめたような笑い声/
17:部屋のなかは、昨日のまま/そのくせ、優しいところがある。どうしてもヴェルマを探すんだ、といっていた/君のようによく働く男には報いがあっていいね/
18:何の苦もなく見せられそうな笑顔だったが、眼は慎重な表情で私を見つめていた。笑った口は、肉感的だった/旧知の間柄のような笑顔/たしかに下等な稼業ですからな/暇があるときは、ぼくはチベットの僧侶ですよ/ぼくは用心棒の義務を果たさなかった。恥ずかしくて、泣きたいくらいだ。ここで泣いてもいいですか?/貧乏人の金を盗んだような気持ち/
19:すぐスカートを脱ぐ女/この町では、法律は金で買える/
20:彼の匂いは、都会の汚れた匂いではなく、未開人の匂いだった/彼の薄笑いの方が巧みだった/
21:葬儀屋が低調に扱っている特別の死骸のような感じがした/その男は痩せて、背が高く、鋼鉄の棒のように姿勢がよかった/夢遊病者の眼のような深さのしれない眼/その眼には表情もなく、魂もなかった/世の中には、私にもわからないことがある。これはその一つなのだ/君の描くマリオと私の姿なのなら、私は少々気にいらないね/
22:私のピストルを手に持って微笑している悪魔に見つめられながら、眠りに落ちたようだった/
23:毎晩、お祈りの代わりに棍棒に唾を吐きかける型の警官/俺たちがお前を好きになるようなことをいってくれ/
24:スリッパ‐でも穿いているときのように/真っ暗な穴だった。私はその中に飛びこんだ。穴には底がなかった/
25:背の低い小男/早く出て行きたくなる部屋/こういう時間は時計では計れない/私は歩いた。私は歩いた。私は歩いた/うんと水を飲んだ。ほとんど泣きながら水を飲んだ/
26:彼のために泣きたいほどの気持ちだった/建物の内部のことについては、誰も知らないであろう/厚い胸から出た深い咳/私はかつて、セントラル街のフロリアンという黒人専門の博奕場でこの男に会ったことがある/大鹿マロイ君はきわめて安全な場所にかくまわれているのだ/
27:表情のない顔つき/その眼は、私の命がいつまで続くか見まもっているようだった/死刑を執行するものが、絞首刑の準備のために囚人に会いに来たときのような微笑/親愛と憐憫と警戒を感じさせる微笑/しりぞけることのできない微笑/いかにも、医師ゾンダボーダだ/
28:どんな部屋であったか少しも覚えていない/彼女はおだやかに微笑した。同時に皮肉な微笑でもあった/朝の太陽が顔に当たって、幸福の谷にいた夢を破られたときのように/このくらいの街になると、隅から隅まで全部買えるんだ/私は人々はが眠っている世界へ帰って来たのだ。眠っている猫のように危害のない世界に・・・/朝には、一応、一人前の人間になっていた/
29:すぐバタンと閉めてしまいたいような横柄なノック/彼の眼には表情がなさすぎた。あまりにも表情がなさすぎた/
30:金棒引きの婆さん/世の中にたった一種類しかない音を待っているのだった/
31:桃色の斑点のある黒い虫/おちついていて、必要とあれば、峻烈にもなれるし、温和にもなれるという態勢/賞金をもらったのはある三百代言/マロイが殺人をやるようなタイプの人間じゃないということ/半分だけでも真実だということを認めたくなかったのだ/彼がこんなに微笑みを見せるのは珍しい。一週間分の微笑を一日で使ってしまったようだ/マリオは誰のお護りだったんだろう?/
32:署長ジョン・ワックス/財布の中まで見えたわけではないが、たしかに五百ドルは入っている。もっとも女房の持参金なら問題はない/彼の顔色が急に変わった。まったくの別の人間になったようだった/選挙運動の献金者の名簿/壁かけうしろのリシュールのように狡猾そうに/石のような表情/
33:俺たちはあの占いの先生と友だちなんだ/警官というものは、ときどき、ひとを殴りたくなるんだよ/君のクビが細い糸でつながっていること/どこの警察でも、彼のような男は得がたい人材だぜ/警官は金が欲しくて、悪いことをするんじゃない。悪いことをさせるのは金じゃない。組織なんだ。命令されたことをやらなければ、クビが飛ぶんだ/正直に暮らしたいと思っても、暮らせないのさ/それがこの国の病気なんだ。手を汚さねば、食っていけないんだ/道徳的再武装/この街は誰が牛耳ってるんだ/
34:私は酒が必要だった。多額の生命保険が必要だった。休暇が必要だった。田舎の別荘が必要だった。しかし、私にあるのは、上衣と帽子とピストルだけだった/この穏やかな街に、探偵がひそかに動くほどの犯罪はないのだろう/八十五セントの定食は捨てられた郵便行嚢のような味だった/
●マーロウによる登場人物総浚い
口はしに黒い血を固まらせて、月のない空を見上げて生命を失った二つの眼。壊れかけたベッドの柱を血に染めてむごたらしく殺されていた不潔な女。なにごとかを怖れながら、それがなんであるかがわからないので、どうすればいいか、判断がつかなかった美しい金髪の男。自由にしようと思えばわけはない美貌の夫人。それとは違う意味でだが、こっちの出方次第ではやはり自由になる不思議な娘、ヘミングウェイのような、根性にはにくめないところがある不良警官。ワックス署長のような、警官というよりも商業会議所の参与を思わせる警察官。ランドールのような、腕もあるし、職務にも忠実でありながら、その敏腕と誠実を公用に用いることができない警官、すべてを諦めているナルティのような警官。インディアン。神経専門の医師。麻薬を売る医師。
35:ここはベイ・シティじゃない。カリフォルニアでもない。アメリカでもないんだ/彼の声は優しく、やわらかで、大男の声とは思えなかった/好意を感じないではいられない。もう一人の声の優しい大男を私に思い出させた/話には聞いていても見たことのない眼/美しい娘の眼のようだった/走れば早そうだった/
36:もっと頭のいい奴に牛耳られてるんだ/人を殺して勢力を作ったわけじゃない。度胸と頭脳でのし上がったんだ/俺は彼奴らの度胸が嫌いなんだ/
37:霧が出ていて、すべてのものが現実のものでないように見えた。湿った空気がさめかけた恋のように冷たかった/この船に親類でも乗っているようだな/ほんとなら、海兵隊を一個中隊ほど欲しいんだ/
38:頭上にはマストの灯火が見え、霧の中に心細い星がいくつか光っていた/いままでのところは、無事な晩だ/彼の笑顔は猫のようだった/眼底に光るものを持っていた/一分のあいだに国が崩壊することもある/海の風に染まった唇はまだ微笑したままだった。その微笑は舞台の微笑を思わせた/君はベイ・シティの一部を自分のものにしている/彼の黄色い眼に新しい焔がっ燃えはじめた/彼はひとりごとのように言った「街を自由にし、市長を選び、警察を買収し、麻薬を売り、前科者をかくまい、宝石ずくめの婆さんを脅迫するーこれだけのことを一人でやっているというのか」彼はかすかに笑った。「さぞ、忙しいことだろうな」
39:実在しない人間と話をしたような奇妙な感じを覚えた/どこか人間味のある黄色い眼の背の低い男/社会の裏面で仕事をしている男/空しい冒険から戻ってきたお人好しのばか者/おおらかな表情をうかべ、顔色は蒼白く、くぼんだ眼のどこかに優しい光がひそんでいた/お金ができると、新しい苦労が生まれるのよ/そして、お金がなかったときの苦労がどんなに辛かったか、すっかり忘れていまうんだわ/突然、どこにも変化があらわれたのでもないのに、彼女の美しさが消え失せた/証拠というものは常に相対的なものだ/興味のあるお話ねーあんたがいっていることがわかるひとには/彼女の眼はなかば凍りかけた水のように灰色に沈んでいた/彼はその夜のうちに死んだ/
40:彼女が誰の膝に抱かれようが気にしないほど惚れぬいているからさ/彼はお金で買えるものは何でも彼女に与えたわ。そして、彼女が彼に与えたものは何でしょう?/ボロを出さないように、一時間ごとにズボンを取り替えてるんだ/シェイクスピアの筆法さ/勇気があって、どんなことがあっても後へは退かないし、わずかばかりの報酬で命がけの仕事をするのね/
41:桃色の縞馬のように希らしい眼力を持つボルティモアの一刑事/その眼は私のいったことを承服しかねるように光っていた/それは感情にとらわれた考えかただ/一点の雲もなく晴れあがり、空気が冷たく澄み切っている日だった。はるか遠くまで見とおすことができたーしかし、ヴェルマが行ったところまでは見えなかった/