12 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【9.榎本脱藩軍北上】

『未開の蝦夷地で北門の警備かたがた徳川家のゆかりの者、せめて旗本とその家族三十万を支える策をこうずる以外に道はない』と北上する榎本軍を描き章の幕が上がります。戦局序盤は『官軍の敗戦はあきらかであり、兵士たちは疲労しきっているうえ、「援軍の望みも全くなし」』と『府知事は京都から到着して僅か半年ののち、ブラキストンを通じて買い入れた英国艦加賀守号で青森へ脱出』という展開。一方、街は『窯の湯が煮えたぎったような騒ぎ。もはや官軍と幕軍との戦いは避けられぬ、と知った街人たちは、持船や雇い船のある者は、内地の出身地に親戚を頼って落ちのびようと港をめざします。港は人々でごった返し、女子供の叫び声が渦巻き、いち早く逃げ出そうと計る箱舘沖ノ口番所役人どもも、街人たちの取締りどころではない』状態となります。そんな中、願乗寺には、懇意にしている尾山屋やブラキストンから避難の手がさしのべられるのですが、結局は箱舘にとどまることを選択します。

■幕府も新政府も頼りにならぬ

朝廷、幕府、その間で揺れる松前藩。政情の不安定さが日々のくらしに影を落とし、徴税や役務などに苦しむ市民。そんな中『箱舘の街の支配は、事実上、夷人商人たちの手にあるといってよい』と綴られます。引用箇所が前後しますが、夷人商人の縦横無人ぶりを伝える記述を記しておきたいと思います。『夷人商人たちは、自由自在に船をあやつって、日本近海はおろか清国やオーストラリヤまで出かけては箱館の街人や奧羽各藩用、官軍用の商品を運び込み、赤胴、エンフェル・ライフル銃、材木、生牛から、人間の輸送まで引き受けていました。じっさい石炭など、ブラキストン邸の中庭に山のように野積みされていました。まったく“夷人商人大繁盛”で幕末から箱舘戦争、明治初期にかけてのご一新のときほど、外夷商人たちが箱舘で縦横に活躍した時期はなかったでしょう。』当時の箱舘人にとって内地、外地を隔てる存在であった津軽海峡を『我がもの顔で往来』する夷人商人たちに食料品、日常品や生活必需品の供給を依存する状況だったわけです。そして外夷商人には物資に留まらず情報も依存していた証左として『夷人商人たちから「脱藩軍がいよいよ北上だぞ」という報せが、街に流れたのでした』と回想されます。政治の混迷に苦しみ、物資や情報を他国に依存する構図、現在と本質的には変わらないある図式が幕末から明治初頭にかけて既に存在していたことに愕然とします。そして『街の識者たちが願乗寺に集まって、父と額を突き合わせ談合するのですが、良い知恵のあろうはずもなく、「幕府も新政府も頼りにならぬ」と、でるのは溜息ばかり』と、これも今日まで何ら変わることない民衆の嘆きです。

■尾山屋の正吉

恐らくとねに淡い恋心を抱いていたであろう尾山屋の次男、正吉。本章以外にもそのことがほのめかされている場面が幾つか登場します。最も端的な箇所は『空が茜色に染まった夕暮れの街に立つ私を、ふと気づくと尾山屋の正吉が、まじまじとみつめているではありませんか。その時のどぎまぎした想いは、私の幼い日の郷愁を面映ゆく色どっています。』と想い起こされる場面です(5章:箱舘諸術調所、P65)。本章でも戦火を避けて昼間を山中で過ごすことになった、とね一家へ広東米を甲斐甲斐しく届ける姿が描かれます。『尾山屋の正吉が、南京袋に三分の一ほど残った米袋を背に、姿を見せました。「願乗寺さま、広東米ですが炒り米にでもして、おとねちゃんたち、山さ逃げるとき使ってください』あくまでもこの本全体の主流ではなく、傍流の一挿話に過ぎませんが、なぜか心に残る場面です。その理由は、とねと正吉、この先それぞれに歩んでいく道が交わることはおろか、接近することさえないであろうことを何となく感じてしまうからなのでしょうか。登場の頻度は多くないですし、話の主流にはほぼ無関係なのですが、どこか心に深く染み入ってくる人物です。正吉を語るときの何かを抑え込んだようなとねの語りに、多くの語られていない何かが潜んでいることを空想してしまうからなのでしょうか。

『尾山屋、とは屋号で、父がはじめて箱舘に渡った天保十二年の同じころ前後して移住した商人。父とは同郷だったことから、ことのほか親しい間柄であり、郷里近郷の南部、津軽から味噌を、新潟から米や雑貨、仏具までも仕入れ、内地各地とも手広く取引きして、海運業も営んでいました』(P29)

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