07 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【4.大火】
4章は<函館の水と火>にまつわるくだりです。
■父・法恵、水への念願
『父、法恵は箱館郊外の開拓と、開拓民の移住に加えて、この街の最大欠陥である水不足解消のために、願乗寺掘削に努力を傾けていきます。』『私の名の「とね(トネ)」も父は漢字で「利根」と書きたかった』と明かされながら、その意図していたところが語られます。『父が江戸へ開宗許可の願いに登った旅の途中、利根川の坂東太郎といわれる水量の豊富さ、関東平野をゆうゆうと流れて、関東各地に豊穣な恵みを与えながら、悠然と太平洋に注ぎいる「利根川」を見て、このように豊かに、多くの人々に愛をそそぐ広い心の女であれかし、と願って名付けたものだそうです。私の名こそ、父のこの 水への念願がこめられているといえましょう。』
■願乗寺川掘削工事
『箱館の近郊を流れる亀田川は、箱館湾に注いでいるため、しだいに川口に泥がたまります。法恵は、この川の水を中途から箱館の街に引き込めば、水害の源を取り除き、しかも住民に飲料水を給することもでき、「一石二鳥の利益が得られるに違いない」と考え(中略)幕府に実査図を添えて提出し、またまた、京都にのぼって西本願寺に具申し、幾許かの援助を願い出ました。』その後『安政六年春、願乗寺川掘削工事着工。』そして『いよいよ亀田川の堤を切って、水流を願乗寺川に導き入れる当日、川の両側は見物人であふれ(中略)願乗寺川完成のいっときを待って、祭りのような賑わいでした。』『亀田川の堤を切って落した川水が音をたてて流れ込み、滝のような水しぶきをあげながらほとばしるさまを目のあたりにみた父は、完成までのもろもろの苦労と歓喜が一度にあふれて、「思わず、水の流れる方向に走り出してしまったよ」と、いかにも嬉しげに話してくれたものでした。』『横津岳から流れくだるその川は、日々底まで透けるほどの清らかな水を溢れさせ、水音もさわやかに箱館の街を流れて、町民の水不足の苦悩と不自由を潤してくれる、文字通り恵みの水』となったとのことです。
■願乗寺川に込められたもうひとつの期待
『願乗寺川の完成には、もうひとつの期待がこめられていました。』箱館の不名誉な名物と称される火事に備える『消火用の水利』としての期待です。ところが、皮肉にも法恵が建立した願乗寺が、万延元年(一八六◯)、火の手に襲われ『本堂は飛び火の火勢で焼け落ち、焼き杭となった柱と土台を残すだけで(中略)入仏式をあげてわずか二年で、ご本尊さまの阿弥陀如来も灰になって』しまいます。
■大火に見舞われた母を通じて得たとねの観照
『母は驚きのあまりに姙った子が流れてしまわないか、と案じたといいます。幼い兄たちも、箱館に渡ってきてはじめての恐怖に口もきけず、町内の女たちの握飯の差し入れも喉を通らず、放心したようすに、母は、「私がしっかりしなければ」と思いかえしたといいます。たび重なる大火に、すべての財産を失うことの多いこの街の女たちの、灰塵の中から振い立つ活力を見習わねばならぬと、消沈した気が立ち直って、ようやく自らを取り戻したものだった、と語る母の話に、私は内地生まれの女がしだいに強靭な精神をつちかわれていく、箱館という街の自然の厳しさを思わずにはいられません。
『内地生まれの母は、懐妊中に火をみると、孕った子に”赤あざ”ができるといわれたことがあると「それはそれは、案じたものだった」』といった母の話からとねは『胎教というものがあるとするなら、私がすべてに敏感な性格に生まれついたのは、母が私を胎内に抱いていたおりにあまりに恐ろしいことにあったせい』ではないかと推測をします。この火事から四年ののち、元治元年(1864)、檀家の熱意と寄付に支えられた父の執念によって仮堂が建立されるのですが、その後も願乗寺の火難の歴史は続きます。
水と火(あわせて風)という函館の自然環境を克服するために奔走するも、不幸にしてその災厄におそわれた一幕を通じて、自然環境が母(女性)に与えたであろう影響についてとねが考察を巡らせています。