17 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【14.森有礼の結婚】

とねの熱病は『「窒扶斯(チブス)という病名の、一種の熱病らしい」』との診断が下されます。高熱が続くこと十日あまり、その後半月を要してようやく熱は引きはじめます。ときを同じくして、女学校札幌移転は翌年まで延期の知らせも届きます。この知らせは、とねの『神経を、いくぶん、落ち着かせた』と述懐されます。

■村石諦観師の言葉

『ようやく恢復し、歩くことができるようになった私は、遅い秋のある休日、築地本願寺に村石諦観師を訪ねました。上京以来いくたびか伺ってはいたものの、今までは師とつきつめたお話をしたことがなかったものでした。(中略)私は、学校の方針と、私の心の軌道が食い違ってしまった原因をありのまま訴え、四面楚歌の状態がぬけ道のない挫折感と重なって、もう自らの力ではどうしたらよいか分からなくなってしまった次第を師に訴えました。

村石諦観師とは、上京前のとねに父が『安政のころ、蝦夷地西派改宗の許可の願いに江戸築地本願寺に罷り出たおりにも、大そう世話になったお方』『きっと何かと相談にのって下さるに違いない。(中略)何事でも打ち明けて、なにかと心頼みにし、心迷うときにもお訪ねするがよい』と語っていた東京築地西本願寺の末寺、光明寺住職。「11.開拓使仮学校女学校」(P144)

師はとねの問いを『額に皺をよせ、厳しい顔つきで聞い』た後『やがてもとのふくよかな笑みを忍ばせた目元にかえって』語り始めます。長い引用になりますが、このまま抜き書きを続けます。『なあ、おとねさん、確かあなたのお父上が“とね”と名付けたののも、もとはといえば“利根川”から思いついたと聞いておる。利根川は親鸞上人との“縁”がある。この浄土宗の開祖といわれる親鸞上人が、発熱した佐貫は、利根川のほとりだったというのです。その名を持つあなたとは、深い関わりがあるに違いない。私はなぜか因縁を感じるのですよ。しかもなあ、親鸞上人は決して身分の高いお方ではなかった。当時の叡山では、学生よりさらに下の堂僧の身であったといいますよ。上人も二十九歳のとき、大へんな苦悩に直面した。そのころは、今のこの騒然とした時代によく似ていて、上人が叡山で過ごした間に世の中は大きく変わり、全盛を誇っていた平家が亡び、後鳥羽上皇が践祚したり、京都に大地震があったり、平家に代わって源頼朝が征夷大将軍となったりで、ちょうどご一新の、いまのように、大変動の時代だったのですね。上人は堂行三昧堂の念仏僧として、叡山に招かれていましたが、時折京都の街に下ることがあったようです。当時、親鸞は迷いに迷っていたといいます。若い親鸞は“性”の問題で苦しみ悩んでいたのです。若い女人のあなたにはそのような話をしても、たやすく分るまいが、今のとねさんと同じほどの苦しみだったのですよ。当面する問題は違っても、ことの重大さに於いては、同じくらいの重さだった。叡山の修道僧たちに、表向き禁じられていた男女の在りようが、京都の街中では、男女が自然のあるがままに生きているのを知って、親鸞は苦悶せねばならなかった。当時の僧たちが、表向きはあくまでも女犯を否定しながら、陰で女犯を続ける虚偽に疑問を持ち、上人は“人間の本能”とはなにか、を考え続け、考えても考えても解決がつかず、悩みは深まるばかりだった、といわれているのですよ。そのすえに、自分の愚かさ、罪の深さ、力のなさを徹底的に自覚しぬき、自分という人間がいかに救われ難い存在であるか、自らの無力が親鸞にはより深く自覚されてきたのです。とねさんも、病気するほど悩みぬいたのだったら、そこまで徹底するほど悩んだのだったら、自らの力の無さをいやというほど知っただろう。そこまで苦悩し尽くしたのなら、もう自らの行動については、よかろうと悪かろうと苦しまず、悩まず、すべて自然におまかせなさい。自らの心の自然な働きのままに従って生きていけばいいのですよ。そして、なおも苦しいと感じたとき、そのときこそ、“南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”阿弥陀さま、お任せします、あなたの命令のままお任せして生きますから、と念仏を唱えてごらんなさい。きっと道が展けます。文明開化の学問を習いつつあるうおとねさんに果たしてこのいい方が通じるかな?では、とねさんのためにいい方をかえてみよう。ただ徒らに自然のままに任せるのとは違って、悩みぬいたすえには、おのずと自らの道に“節度”が生まれるものです。そしておそらく、自然にあなたの生きる道が、開かれてくるに違いないのです。苦悩のすえ、辿った道だったら、たとえ世の中から非難されようとも、それは、かえって世の中のほうが自然に逆らっているやもしれぬときが、ままある。な、いいかな、とねさん。親鸞上人は、晩年あらわされた“和らげ讃め”といわれる高僧和讃のなかで、諷誦しやすいように、解いておられる。“生死の苦海ほとりなし、ひさしくしずめるわれらをば、弥陀弘僧のふねのみぞ、のせてかならずわたしける、のせてかならずわたしける”きっと道が開ける、とおっしゃっているのですよ』この諦観師の言葉は半信半疑ながらも『繰り返しおもいかえされ』とねはかみしめます。『それでもなお、“北へ行かねばならぬ”と思うとき、私の心は憂鬱な想いに閉ざされたままで、すっきりと悩みが消え去る』ことはありませんでした。

“人間は、悩みぬくことが大切です。悩みぬくと、人はいつしかしぜんに節度のあることを知ります。節度とはそれ自身ひとつの批判力なのです。生きているままの日常生活の中で、悩みぬいたすえに道は展ける、と信じること、おそらく、そのように考えることで、きっと苦悩から救われ、いずれは逞しく生きていく知識と、力の獲得がなされるものですよ”

■森有礼、広瀬常へ求婚

明治七年十月末、森有礼外務大丞が広瀬常に求婚。ライマンの申し出を抱えて困惑していた広瀬家の両親、そして常には、願ってもいない森からの申し出に異論があろう筈もなく、内々に婚約の運びとなります。「北海道在籍の人にあらざれば、婚姻すまじきこと」と定められた校則は、この婚約に伴い、森から開拓使長官黒田清隆へ改正の勧告がなされ、改正。この改正は、とねにとっても朗報ではある一方で、退学金の問題は残されたまま。とねの心が晴れることはありません。

■女学校、札幌へ

明治八年八月、横浜港から北海道へ出航。『明治五年、薔薇色の夢を抱いて上京したときの、あの輝くような気概もなく、ただただ引かれいく子羊のように船に乗り込むだけ』のとねです。船中でもとねの自問自答は続きます。『北へ向かう船の甲板で、夜空にまたたく降るほどの星空を、手摺りにもたれながら私はじっと眺めつくしていました。かずかずの星のなかから柄杓の形を見つけだし、それをもとに北斗七星をさがしあてると、船はまさしくその方向を指して運航しているのでした。この船が、函館に私を運んでくれるのだったらどんなに嬉しいことか・・・・・・。涙がどっと、あふれ落ちました。この船は函館に立ち寄るものの、女生徒の上陸は厳禁ということです。退学金さえ払えたら、そのまま函館に留まりたい・・・・・・。私はふと、このまま、この黒くうねる海の底に引き込まれてしまいたい誘惑にかられました。そのとき、私を見つめている、父の顔が・・・・・・はっ!と、われとわが想いを引き止めたものは、父のその目でした。父は私が札幌へ行かねばならぬことを知って、どんな思いでいるのだろう。維新直後の廃仏毀釈運動は、父にとって足元をすくわれるほどの打撃だったに違いない。移りかわりゆく時代を知った父は、おそらく時代に遅れぬ女にしたい、と私を勉学につかせてくれたに違いなかった。私もかつての女たちの歩んだ道をたどりたくはなかった。月々支払う費用の負担が、父にとって軽くないことは分かりすぎるほど分かっていた。父を思えば、私は決して軽はずみなことをしてはならない。それにしても、悩みぬいたすえに、自然のままに任せるなら、きっと道は展けるのだろうか・・・・・・。』とねの悩みを乗せた船は北を目指します。

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