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芥川龍之介短編集 ジェイ・ルービン編 村上春樹序

□五反田のブックファーストで

この本を買ったのはもう随分前のことだ。五反田の東急プラザ(改装された後)のブックファーストで買った。当時僕は会社勤めをしていて、毎日朝と晩、乗り換え駅として五反田駅を利用していたのだ。もっとも営業職についていたから、営業先へ直接出向くとき、あるいは、その逆に出先から直接帰宅する場合はその限りではない。とはいえ、まあ、一週間の少なくとも半分以上はこの駅を使い、会社に向かい、夜には自宅へ戻っていたのだ。その道中(帰路)このブックファーストによく立ち寄っていた。そんなあてどない寄り道する中で手に取った一冊。購入した理由は明確で、村上春樹が序文を寄せていたからだ。その序文をさらっと立ち読みして~当時としては~「かなり踏み込んだ内容だな」と感じたことを記憶している。ただ、その初見ですぐにこの本を手にレジへ向かうことはなかった。芥川にはほとんと関心がなかったことなどがその理由だと思う。ただし、結局その数日後、この一冊を買い求めることになる。再来店した際に、この一冊~今、僕の手元にこうしてある~は、勿論、書棚に収まっていた。あらためて、村上春樹の序文をさらっとは読んだかもしれない。そこに書かれている文章が変わってはいない~そんなことはあるはずもないのだが~ことを確かめたのかもしれない。勿論書かれている文章は、数日前に立ち読みした際と変わることなく、この書物の冒頭箇所に数ページの渡り印刷をされていた。そのことを確かめて、僕はこの本を手に取り、レジへ向かった筈だ。このようにして、この本は今、こうして僕の手元にある。

□「国民的作家」の一人

さて、では、その村上春樹の序文を読んでいこうと思う。書き出しは以下の通りである。

芥川龍之介は日本における「国民的作家」の一人である。もし明治維新以降の日本における、いわゆる近代文学作家の中から、「国民的作家」を十人選ぶための投票があったとしたら、芥川はまず間違いなくその一角を占めることだろう。私見ではあるが、そのリストには彼のほかには、夏目漱石、森鷗外、島崎藤村、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成、といった名前が並ぶのではないか。確信はないけれど、太宰治、三島由紀夫がそのあとに続くかもしれない。夏目漱石は疑いの余地なくトップをとるだろう。芥川は、うまくいけば上位五人の中に潜り込めるかもしれない。これで、九人、あとの一人はなかなか思いつけない。

□芥川龍之介は日本における「国民的作家」の一人である
□近代文学の「国民的作家」を十人の一角を占めることだろう
□芥川は上位五人の中に潜り込めるかもしれない

ここまでが最初の段落。このあと『それでは「国民的作家』とは具体的に、いったいどのような種類の作家を意味するのか?』との投げ掛けとともに『国民的作家』の定義が行われていくが、本稿では一旦ここは飛ばす。ひとつだけメモをしておくならば、『国民的作家』たるポイントとして『立派な古典的作品だけではなく、広い層に、とりわけ年若い層に受け入れられる、ポピュラーな作品をも残しているところ』を挙げており、それらの作品は『必然的に野心的な若い作家たちの反逆や嘲笑の対象となる』というくだりを記憶しておこうと思う。

そのような「国民的作家」たちの中で、僕が個人的に愛好するのは、夏目漱石と谷崎潤一郎だが、芥川龍之介にはそれに次ぐーいくぶん距離は開いているにせよー好意を抱いている。森鴎外も悪くないけれど、現代の目から見れば、その文章スタイルはいささか古典的に、スタティックに収まりすぎていると僕には感じられる。川端の作品について言えば、正直なところ、僕は苦手である。文学的価値を認めないというのではもちろんないし、小説家としての実力は認めるのだが、その小説世界のありように、個人的にそれほど共感が持てない。島崎と志賀については、「とりたてて興味がない」としか言いようがない。教科書に載ったもの以外はほとんど読んだこともないし、読んだものもとくに記憶に残ってはいない。

□「国民的作家」たちの中で個人的に愛好するのは夏目漱石と谷崎潤一郎
□芥川龍之介には夏目、谷崎に次ぐ好意を抱いている
□川端の小説世界のありように個人的に共感が持てない
□島崎と志賀については「とりたてて興味がない」
■言及のない三島と太宰についての評価は?

□まれにみる見取り図の開陳

村上春樹が、日本文学について、ここまで俯瞰的かつ横断的な見取り図を開陳するのは極めて珍しいなと感じたのが、冒頭に記載した「踏み込んだ内容だな」と感じた一因である。本書(07年6月発行)に先立ち、97年(雑誌連載自体は96年1月~97年2月)に出された『若い読者のための短編小説案内』を記憶していたからだと思う。その中では日本文学について、次のように語られていた。

『僕は実を言うとこれまでの人生の大半にわたって、日本の小説のあまりよい読者ではありませんでした』『自己形成期を通じて僕は、日本の小説を読んで心を動かされたり、胸を打たれたりした経験を一度も持ちませんでした』『つまり意識的に日本の文学を自分から遠ざけておくことによって、自分の文章スタイル(そしてその先にある小説のスタイル)を徹底してオリジナルなものにしてみるのも面白いんじゃないかということですね』『でも四十歳を過ぎて少ししたころに、「そろそろ僕も日本の小説を系統的に、腰を据えて読み始めてもいいんじゃないか」と自然発生的に考えるようになりました』(『長い個人的な文体上の実験がようやくここで一段階したのだ、という言い方もできるかもしれません』とも)『それから僕が日本の小説に興味を持つようになっもうひとつの理由として、四十歳になる少し前から僕が日本に出て、外国に住みはじめたということがあります』

ここまではあくまでも村上春樹自身と日本文学の関係についての全体像。読者であり書き手でもあることから、その点だけ、少し注意深く「読む」必要があるが、過去にも同様の主旨の発言は見かけている。そして、この先、ぐっと話の深度が増してくる。当時(『若い読者のための短編小説案内』を初めて読んだ頃)とても興味深く読んだことを記憶している。

『だから日本に帰るたびに、熱心に日本の文学作品を買い込んでいくようになりました。ただ、日本の小説ならなんでもいい、なんでもすんなりと受け入れられるようになった、というわけではもちろんありません。僕はいわゆる自然主義的な小説、あるいは私小説はほぼ駄目でした、太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした。そういう小説には、どうしても身体がうまく入っていかないのです。サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまうのです。言うまでもないことですが、それは僕の個人的な嗜好の問題であって、それが作品の客観的評価につながるわけではまったくありません』

ここまではまだ浅い、というか、深く潜る前の前提であり、彼特有の様々な意味での保険をかけている段階ですね。こちら(私)としては、作品の客観的な評価はどうでもいい話であって「村上春樹がそれらの作品をどう読んだのか、どう読むことができなかったのか」が最大の関心事であり、むしろ、村上春樹が『身体がうまく入っていかな』かったもの、それが「何であるのか」を知る(推測)ことが、最重要事項にあり、そこから彼の小説世界の成り立ちを推し量ることが楽しみなわけですから。

『僕がこれまでの段階で、日本の小説の中でいちばん心を惹かれたのは、第二次世界大戦後に文壇に登場した、いわゆる「第三の新人」と呼ばれている一群の作家たちでした。具体的に名前をあげると、安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作、といった人々です。またそれに加えて、一般的な定義においてはそのグループには属さないけれど、その前後に登場した何人かの作家にも興味を持ちました。例えば長谷川四郎、丸谷才一、吉田健一といった作家です』

ようやく本題に入ってきました。必要としていた、ありとあらゆる証拠物が散乱した事件現場に足を踏み入れてしまったフィリップ・マーロウのような気分にさえなります。「とにかくすべてが重要であることは明らかであるけれども、その重要さの意味合いがそれぞれに異なっているから、序列をつけて整理をすることさえできない」といったような。そしてこうして名前が連ねられた後に、ますます、混迷を深めるお題が投げ掛けられます。要旨だけを以下に記します。

□これらの作家が小説を作り上げる上で『自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係をどのように位置づけてやっているのか』村上春樹自身の創作上の大きな命題でもある
□村上春樹を日本文学から長い間遠ざけていたいちばんの要因は「自我表現」の問題

□芥川へ戻る

と、ついに深く進入すべき横穴が示されたわけです。なぜ、横穴が示されたのかは『若い読者のための短編小説案内』が書かれた背景や目的に紐づくのですが、それは同書の前書きを読めばわかることなので、ここでは割愛しますが、こうした本質的なお題を過去に示したことがある一方で、「日本文学全般」について全体像を俯瞰して、網羅的にコメントをした文章は、この『芥川龍之介短編集』の序文において、はじめて目にしたように思います。という経緯を踏まえて「踏み込んだ内容だな」と感じたわけです。どちらかといえば、局所的に深く踏み込んだというのではなくて、少しお題の領域を広くした、隣の芝生にも足を踏み込んだという意味の「踏み込んだ」ですね。そして、ここから芥川という局所に深く潜っていくことになるのですが、今回はひとまず、ここまでとしようと思います。


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