19 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【16.晩餐会】

第一部を締めくくる残り2章(16章と最終の16章)に差し掛かります。この16章から話が急転回します。前章では、退学後、自らの中にある勉学への思いを再確認して、明るい兆しを感じる箇所のみを抜粋しましたが、一方で、とねは、開拓史仮学校女学校時代に悩まされ続けた問題(表面的には西洋化を推し進めながらも、根強く拭い去れず残る日本古来の封建的な慣習、その慣習を根底として、求められる様々な振る舞い、引いては開拓使仮学校女学校の方針のふらつき)に引き続き翻弄されていました。具体的には、とねに持ち込まれた縁談話。そしてとねが縁談を拒んだことにまるで呼応するかのように起きた黒田清隆の妻殺傷事件は開拓史仮学校女学校時代にとねが感じ続けた違和感をあらためて呼び起こすことになります。縁談をとねが拒んだことは「脳の病」の風評被害とも相まって、再び彼女を悩ませていました。

■父との別れ

この16章では、とねにとって重大な、ひとつの別れとひとつの出会いが書かれます。まずは別れ。それは父乗経との死別です。『あっけないほどの、虚しい父の死。私がもっとも愛していた父は、仏のみもとへと永遠に旅立ってしまったのです。行年、数え年で五十五歳』『明治六年の焼失以来念願しつづけた願乗寺本堂再建のために、檀徒からの寄付集め、大工の手配、設計、許可願い出、と休む暇もなく駆けめぐっていた父、加えて江差の西本願寺系檀徒たちたっての願いで、清水村にあった宣法庵を江差に移建するという大事業を負って函館、清水村、江差を忙しく往復していた父。過労が身をむしばんでいたのに違いありません』ととねは想い返します。『父の倒れた夜、私は一睡もできませんでした。いえ、ひとときも父の側を離れたくなかったのです。もっともっと父と語り合うべきだった大事な話があったように思われ、あまりに突然の死が恨めしく口惜しく、安置された父の遺体のまえでもだえて泣き通した夜でした。』『父の葬儀はしめやかに執り行われ国領平七、尾山屋をはじめ、檀徒の人々から出面の男女たち、アイヌ人たちまで寺に入りきらぬほどの参列者。焼香の列は願乗寺川に沿って並び、江差や清水村からも駆け付けた檀徒たちの父への想い、悲しみがあらためて私の胸にさいなむのでした。』キャプテン・ブラキストンも『慣れぬ手つきで線香をあげ』る為にやってきたということです。『眠られぬ夜、父への想いを反芻しているとますます眼はさえ、父という大きな堅個な貝殻に護られて、時折外を眺めながら過ごしていただけの自分を感じ、その貝殻がこなみじんにくだけ散ってしまった空しさに茫然としました。』

とねを東京の学校へ送り出すこと、縁談を無理強いすることなく、とねの良きようにと、とねに委ねたこと、とねの一生を左右する重大事に際して、悉くとねの意思を尊重して、ある意味、とねの盾になってくれていた父を失った、とねの悲しみの深さは計り知ることはできません。

■ジョン・ミルンとの出会い

8月の月法要に出かけたとねに運命の出会いが訪れます。キャプテン・ブラキストンと連れ立って散策をしていたジョン・ミルンとの出会いです。その場面を抜き書きしておきます。『「おトネさぁん!」大股に登ってきて、ポンと私の肩をたたき、「やあ!おトネさん、どこへ?」沢山かかえた花束と線香を目にやって、「そうだ、お墓へ行くのかな?」「はい」と、頷くときキャプテンの肩ごしに、私をじいっとみつめる、サファイア色の瞳に気づきました。思いがけぬその視線のきつさに、私はなぜか、はっ!としてしまいました。外人にしては背の低いその人は、焦げ茶のふさふさとした髪をなで上げながら、軽快な声で、「キャプテン、紹介して下さい。このレディを・・・・・・」「あ、そうそう」と、キャプテンはうなずいて「プロフェッサー、ジョン・ミルン。こちらはプロフェッサー、エドワード・シルベスター・モース。二人とも東京の大学の先生として、それぞれ英国と米国から、はるばる海を越えてこられた方々です。」(中略)「私はイギリスから一昨年やってきたジョン・ミルンです。ミス・トネ、お目にかかれて光栄です」ミルン教授の、力強く握り返す大きな手と優しい目なざしに、日本の男たちには決してみられぬのびのびしたものが感じられるのでした。なぜか胸のあたりがぼうっと暖かく、正体の分からぬふしぎな感情が、私の心に充ちていくのでした。』『こうして三人の異人は、私と一しょに父の墓所への道を辿ることになったのです。道はしだいに登り坂になり、左側には函館山の切り立った崖がせまり、道の右端には白や鴇色の葵の花がそよ風にゆるく花びらをそよがせています。崖下は漁師の家がまばらに立つ押付の浜。見渡す函館湾は紫紺色に凪いで金色の小波がきらめき、蒸気船が港を出港したばかりなのでしょう。黒々とした煙をなびかせて津軽海峡に向おうとしています。「トネさん、持ってあげよう」ミルン教授が私の花束に手を差し出しました。父乗経、大蟲師と二対分の花束と、それに線香を抱えながら、私が崖下から吹きあがる風に裾を乱すまいとつとめる姿が気になったのでしょうか。モース教授は切崩した崖の地層をしきりに目でさぐっています。心淋しい墓詣での道がにわかに賑やかな散策に変わり、楽しい場所にでも行くかのように私の心ははずむのでした。』

■とねの心の扉が開く

墓参を終えての別れぎわに、とねはキャプテン・ブラキストンからモース教授とミルン教授が東京へ戻るにあたっての送別会を兼ねた晩餐会への誘いを受けます。晩餐会の席でとねは、ミルンのシベリア横断・欧亜縦走を走破して日本へやってきたという大冒険譚に引き込まれてしまいます。そしてミルンとトネは来年再び函館での再会、そしてそれまでの間の文通を約束して別れます。晩餐会の前に、とねとミルン、それぞれに持っていた辞書を交換する一幕が紹介されますが、これは単に辞書を交換したという行為以上に、この先の人生を共に歩んでいく二人が大切な何かを取り交わしたという意味を含んでいるようにも思えます。そして本章は晩餐会帰りのとねを願乗寺までミルンが送り届ける場面で締めくくられます。『初秋のレモン形の月がもう天空高くのぼって青白い光を投げかけ、夜道はかなりの明るさでした。月明かりに川面がチラチラ揺れています。久しぶりで、生きている幸せをしみじみと思わずにはいられないほどでした。(中略)「・・・おやすみなさい」「おやすみ」ミルン教授は手を差しのべて私の手をとると、その私の手は、いつか彼の口元に導かれていました。手の甲にそそがれた彼の熱い口付けに私の胸はときめき、心に瑠璃色の灯がともり、体じゅうが、かつて知らぬあつい喜びに包まれていくのでした。その夜床についてからも、ミルン教授と交わした握手の力強い暖かさがよみがえって、いつまでも眠れず、長いこと閉ざされていた私の暗い心の心の扉は開かれていくように感じられました。幸せな虹の光にとりかこまれるような想いにひたりながら、私はやがて深い眠りにつきました。』

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