06 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【3.願乗寺建立】
■蝦夷地開宗の賛同を得る為の旅
とねの父、法恵は安政二年四月『築地本願寺に蝦夷地改宗の賛同を得ようと、箱舘を出発』『蝦夷地の内情を説いて築地本願寺の賛同を得たのち、さらに、急ぎ、江戸から京へ東海道の旅を続け』ます。『はるばる京へ着いたのは、長旅で汚れた法衣も汗ばむ初夏のころ』『当時の宗主、広如上人は豪放なお方らしく、蝦夷地や移民を想う意見書にいたく感動され、早速に箱舘のみならず、蝦夷全島に西派開宗の命令が下され、下賜金を添えて開宗を励まされた』とのことです。『箱舘に戻ったときには、夏の短い蝦夷地の港には、はや秋風が走ったいた』といいます。
■札幌、小樽へ
その後、法恵は『蝦夷地全島の開宗の許可をいただいたゆえ、できれば蝦夷奥地にも西派寺院を建立できたら、との心づもりで札幌に向けて出発します。そのころの札幌への道は、箱舘から小樽まで弁才船、そこから銭函まで小舟に乗りかえ、上陸ののち徒歩で札幌まで行くのです。しかし、札幌には、住居はほんの数えるほどであとはただ平坦な原野が広がっているだけ』でした。
今から160年以上も昔のことですから、当然といえば当然なのですが、函館から札幌への移動が船(と当然、徒歩)によるものであったこと、あらためての気づきでした。そして今日では北海道の中心地となった札幌の当時の姿をとても新鮮に感じました。
そこで法恵は『住民あってこその布教と、札幌開宗を断念し、小樽にまず西派掛所を建造することにします。小樽は近年、江差方面の鯡漁がさらに北へのびて、かなりの賑わいをみせていましたので、この地へ箱舘とともに開宗の心づもりをします。』その後の経緯だけを記録すると『箱舘奉行は、安政三年ようやく西派開宗を許可』『西派箱舘願乗寺は、ようやくのことで、安政四年五月に完工』と相成ります。
第3章は以降、西本願寺派の蝦夷地開宗に絡む、松前藩及び東本願寺派との関係、そして、安政二年六月の仏船シビル号の箱舘入港、”諸術調所”設立などのエピソードが紹介され、第4章へと連なっていきます。