ごろにゃん
青春時代は失恋の涙で枕を濡らしたものだが、齢六十を過ぎた今、ヨダレ鼻水で枕を濡らす朝。薄墨を流したような梅雨の晴れ間に呼応するように泥水を流したような頭の中。
洗濯物を干していると、どこかで飼われているのか野良なのかわからないが、猫が足元にすり寄って甘えたような声でニャーと来る。エサをやっているわけではないのでそういう主従関係はない。おそらく自分のテリトリー内の所有物的な扱いで、足元でスリスリするのはいわゆるマーキングのようなことではないかと思われるが、甘えるような声ですり寄られるとやっぱり可愛い。
ついつい「ニャンだ、どした」とかなんとか猫なで声で柔らかくて暖かい猫の体を撫でまわす。この暖かさがいい。このふにゃふにゃの柔らかさがいい。顎の下をナデナデすると恍惚の眼でゴロゴロ言ったりする。
ひとしきりニャー、スリスリ、「ニャンだ、どした」、ナデナデ、ゴロゴロを楽しむと猫はまたどこかへ行ってしまう。我が家に来る猫たちはまったく見ず知らずの猫という訳ではないので、こういうこともあろうと思うが、出先で出会った初対面の猫でもニャー、スリスリ、「ニャンだ、どした」、ナデナデ、ゴロゴロの状態になることがある。私が猫好きだということを、彼らからは野生の勘と云うヤツで見抜かれているのかもしれない。
独り暮らしは気楽でいい。とは言っても寂しいと思うときもある。そんな時に、ニャー、スリスリ、「ニャンだ、どした」、ナデナデ、ゴロゴロというひと時があると心なごみ癒されるものだ。アニマルセラピーってやつだろう。
街の赤い燭の灯る店で暖かくて柔らかいヒトにナデナデするとお金がかかりそうだし、電車の中で知らない人の顎をナデナデしてもきっと大騒ぎになるに違いない。下手をすれば鉄格子の部屋で変なおじさんたちと共同生活をさせられかねない。
やっぱり雑草の繁茂した我が家の庭で暖かくて柔らかい猫を相手にニャー、スリスリ、「ニャンだ、どした」、ナデナデ、ゴロゴロするのが一番いい。
人間はナデナデできるのは子供のうちだけ、しかもこのご時世だ、身内の子供に限定しなければいろいろ差し支える。ましてや成人した男にナデナデしたら「オマ、バカンしてんのかっ、コノヤロー」と殴られかねない。
その点、猫は成人(成猫)していてもナデナデして怒られることはない。
犬はどうか、遠い昔、3歳か4歳の頃の記憶の中に、近所のスピッツに噛まれたという記憶が微かに残っていて、以来、特に吠える犬は苦手である。成人してからも受け口の野良犬に追いかけられたりそんな体験ばかりしていて犬とはあまりいい出会いに恵まれていない。
犬と人間との信頼関係、目と目を合わせ深い信頼関係で結ばれて、決して裏切らないと言われるが、私は子供の頃にその関係が築けないまま今に至っている。飼えば毎日の散歩やら雲固の始末やら、必ず鎖につないでおかないといけないし、独り暮らしのジジイには負担が大きすぎる。こっちの都合で、勝手に鎖でつないでおいて「犬は裏切らない」なんて私には口が裂けても言えないのだ。
やっぱり雑草の繁茂した我が家の庭で、どこかからか来た暖かくて柔らかい猫を相手にニャー、スリスリ、「ニャンだ、どした」、ナデナデ、ゴロゴロするのが一番気楽でいい。