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消える闇と広がる闇
ある動画で水牛に返り討ちに遭い逆に殺されてしまうライオンの姿があった。角で何度も腹を刺され、ヨロヨロになりながらなおも水牛の首筋にとびかかろうとするライオンは次第に弱っていくがそれでも水牛は執拗にライオンの腹を角で突き刺す。殺るか殺られるか喰うか食われるか生きるか死ぬか、ライオンの最後は餓死か殺されるかのどちらか。百獣の王ライオンと言われるが生まれてから成獣になる確率は50パーセントだと言われているし、平均寿命も10年そこそこだという。だからこそ生きる事への執着も強いんだろうと思う。
人も長い歴史の中で飢餓との戦いがあったからこそ、生き続けてきたのかもしれない。衣食足りて飢餓の心配がなくなった今、生きる事への執着はかなり希薄になっているような気がする。
夏の夜といえば怪談話。お化けとか妖怪の類は、私も含めて現代の子供たちにとっては娯楽のひとつでしかなくなってきている。これが子供たちにとって幸せな事であるのか。
陽が沈んだ帰り道、樹木の陰や小川の草むら、路地の物陰など、至るところに様々な物の怪たちが潜んで待ち伏せていた。化け物たちは人の生活の中で磊落(らいらく)に生活できる時代が長い間続いていた。こういった怪談話や民話は言い換えれば危機回避するための子供たちへの警鐘でもあった。
陽が沈んだ後の暗闇という特別な場所が少なくなってきている。暗闇の減少によって危機感とか恐怖感というものが薄らいだ代わりに心の中の闇が広がり始めているような気がするが、これは私自身が勝手にそう思い込んでいるだけなのか。猟奇的な事件は昔も今も起きていたが、その猟奇的と受け止める感覚が麻痺してきているんじゃないかと思えてくる。モラルという言葉に隠された猟奇。
「新聞、ラジオ、テレビという媒体が発達して、事件、事故、戦争のニュースをエアコンの効いた部屋で枝豆をつまみにビールを飲みながら見ているわけだ。こんな時代、今までの人類史に無かったな。この時、「こりゃたいへんだ」と深刻な気持ちになるが、その深刻な気持ちはほんの一瞬。映像が消えCMが始まっちゃうと深刻な気持ちはどこかへ消えてしまう。厄介なのは、それだけでその国の戦争がわかったような気になってしまう。解ったという錯覚だ。その錯覚を起こさせるのは、テレビは他のどんな媒体より激しい。これは、機械というもののもつ最大のトリックだと思うね。」と言うようなことを40年前に命がけでベトナム戦争を従軍取材した開高健が書いていた。
今ではそのテレビで戦争や事件の残酷な映像は流れなくなってきている。残酷だからという理由で。
インターネットが普及してテレビで流せなくなった残酷な映像がネットの映像で、「映像だけ」が無機的に流されている。何の制限もなく誰にでも簡単に見られている。そういうアンバランスな状態がより激しくなっている。「映像だけ」が問題だ。テレビ時代にはなかった親の監視の無いネット画像、動画が面白半分に観られている現状はテレビでのモラルも何もない。大丈夫なのかな。
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