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後の祭り

免疫細胞は600兆もの数の細菌が共生する体内で、一千万種もの病原体に対応し、共生すべき相手か、退治すべき相手かを見誤らないように判断するそうだ。
こういうことが常に体の中では我々の意識の外で行われている。
攻める細胞と待ったをかける細胞のバランスがしっかりとできているということだ。
人間の体の中ではそういうバランスをうまくとっているのに、人間同士の集合体となるとこれがどうしても上手くバランスを取ることができず、すぐに争いを起こしてしまう。
人間だけなんだよ。生き方が下手なのは。

毎年、市から成人病検診の案内が届く。案内の紙をもっていけば無料で検査してくれる。一市民の健康にまで気を配ってくれる有難い制度だ。その成人病の検査。私はまだ一度も受けたことがない。何とも勿体ないと思う。
こういうヤツに限って、病気になった時「受けときゃよかった」と、後悔する。病院のベッドの上で、「こんなことになるんだったら」と、グシャグシャに泣きわめきながら惨めな最期を迎えるのかもしれないと、時々思う。「いつか後悔するぞ」とみんなにも言われる。
確かにこれまでの経験から「やっておけばよかった」と後悔することばかりだ。やっぱり人の意見に耳を傾けることは大切だ。歳をとると人の意見が耳に入らなくなる。意見を言ってもらえるということは、それだけ気にかけてくれているということだ。独り者の私には有難い事である。素直に耳を傾ける姿勢が大切だ。ただ、耳を傾けることは傾けるが、やるかやらないかはまた別だ。
成人病になる確率が高いとはいえ、ならない確率もあるわけだ。という変な理屈がむくむくと湧いてくる。成人病にならなければ良いわけだ。という変な理屈がむくむくと湧いてくる。あるいは想定外の病気に苦しめられるかもしれないし、事故で死ぬかもしれないし、死なないにしても後遺症で苦しめられるかもしれないし、気付かないうちに誰かの恨みを買って殺されるかもしれないし、人知れず病気になって、自宅で餓死、孤独死する可能性も充分にある。ボケてしまうかもしれないし。

5年前に75歳で亡くなった知人は、健康オタクだった。75歳という年齢は平均寿命から考えると少し早すぎる気もするが、30年前の平均寿命を考えれば75歳はそれなりに・・・的なのか。
「健康のためなら死んでもいい」と、全然面白くない冗談を言っていた。定年になって、大好きだった酒たばこを絶ち、毎日、朝の散歩を日課に、来る日も来る日も朝から晩まで健康に気を使って規則正しい生活を続けての75歳。これが果たして幸せだったのかどうか、本人にしかわからないことではある。現役時代の不摂生を正したお陰で75歳まで生きられたといわれれば、そうかとも思える。本人からすればこれだけ我慢したのにという思いもちらつかせていた。さて、どうなんだろう。私は今年65歳。10年後どうなっているか。
死に方は選べないが、生き方は選べる。自己責任でね。


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