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【雑記】ブランケットとしょっぱい唐揚げ

皆さんこんばんは。ヒトシです。
「ゴレンジャーボールが5人未満でも出せる」という事実に驚愕する今日このごろです。それでいいのかゴレンジャーよ。

さて、今回は真面目な話、というか「東日本大震災」の頃の話をしようと思います。発災から明日で10年、というタイミングで一度当時のことを書き残しておこう、ということにしました。といっても全部正直に書くと各方面に身バレしかねないので「書ける範囲」かつ「微妙に違うが肝要は全部事実」くらいのスタンスで行こうと思いますのでご了承ください。
メンタル的に読むのが厳しくなってきたらいつでも閉じてもらって構いません。これは備忘録のようなものです。

当時は高校1年でした。発災当時は世界史の授業で1年で履修した範囲で解ける私大過去問の解説を聞いていた覚えがあります。(1年のうちからそういう問題を授業に出すタイプの高校でした)
当初は揺れが大きくなってから先生がやっと気づいて隠れる始末でそこまで誰も心配していなかったのも覚えています。揺れ初めから1分以上経過した辺りで「これはただごとではない、これまでの経験は通じない」となんとなく気付かされました。ひっきりなしに開閉する教室の戸、駆けつけた担任の先生の声、隣の席の子がかすれた声で発した「こわい」という声。当時両親や地元の同級生がどうなっているか心配で仕方なかったのも覚えています。それにしてもなぜ避難時に山川の用語集を持ち出したかは覚えていません。

ひとまず校庭に避難し、雨混じりの雪が降る中30分ほど待っていた気がします。「スクールバスは出せるか」「旧棟の内壁がほぼ崩壊」「〇〇通りが通行止め」……先生たちの臨時会議がその場で始まり、地元以外の生徒はひとまず一般の方と体育館に避難すること、スクールバスを出せる地域にはスクールバスを出して帰宅させることが決まりました。そんな会話を後ろに談笑できている同期もいましたが私はといえばそこまでの状態ではありませんでした。用語集を開いて読もうとしても目が文字の上を滑っていく。正直雑談していいかどうか脳が判断できない。「なんとかして帰る」「家は無事か」「あいつの家は大丈夫か」と、思考の十割が地震のことに費やされていると言っていい状態でした。

体育館に避難する途上、旧棟全体が2度ほど道路側に傾いているのが見えました。目の錯覚でもなんでもなく本当に2度傾いた校舎。別棟との連絡通路の間にはっきりと空いた間隔。雪も止み、いつもと変わらない午後5時の夕焼けの無情な眩しさ。明らかに昨日までの日常とは違う状態になってしまった、と頭でやっと理解できました。

午後7時にもなると出せるスクールバスはすべて発車し、地元の生徒は全員帰り、電車通学の生徒と私と同郷の生徒だけが残っていました。発電機は炊き出しのための炊飯器等にあてがい、残った生徒にはみんなが使っていたブランケットを回し、寒さを凌ぐということになりました。校舎に携帯を忘れていた私と世界史の先生、それに教頭先生の3人がかりで「ブランケット&携帯回収作戦」をやることになり体育館を出たときの光景は忘れられません。周囲の明かりという明かりが全て消え、普段なら見えない等級の星まではっきりと見える夜空。「美しい」を通り越して「恐ろしい」という感情を夜空に抱いたのは、多分あの時だけです。あの時だけで十分です。

かき集めたブランケット、遠くの方で聞こえるラジオが伝える被災状況。ひっきりなしに揺れる天井の照明。もう何度目かわからない余震。今にしてみればハラスメント行為だったとはっきり言える副担任の発言、キレ気味に突っ込んでしまった私。腕時計を何度見ても時間は進まず、誰かのブランケットを畳んで枕代わりにしても驚くほど眠れず、起きては眠りを繰り返しつつ何度起きてもラジオから流れる被災状況は止まらない。流石に両親も今日のうちには迎えにくるまいと腹をくくってやっと一眠りしたのは、たしか午前3時。既に3月12日でした。(後で父に聞いたところ、11時ころに一度迎えに来ていたそうですが教頭先生から『ヒトシ君は無事だしお父さんにも無理はしてほしくない』と一度返されていたことを知りました。憤慨した目つきでその話をしていた父ですが、気の短い父の性格とあの状況を考えると多分正解でした)

翌日の朝食に出されたのは、食堂に常備してあった冷凍のフライドポテトと唐揚げでした。先生が塩のふり加減を誤ったか、フライドポテトの方にかけたかったであろう塩が盛大に唐揚げの方までかかった人生最高塩分濃度の朝食。思い出すだに口の中の水分が全部持ってかれたあのときの味わいが脳裏に浮かびます。

最終的に私は他学科の先生の車に載せられて帰宅することになりました。車窓から見えた町並みの変質も、よく覚えています。新幹線のレール下部に伸びるダクトは折れて車に突き刺さり、交差点はドライバーの良心によって事故を免れ、コンビニとガソリンスタンドの周囲は人だかりならぬ車だかり。家に帰ったのは午前11時過ぎ。帰ってくると母は不在。どうしたのかと聞いた私に父は呆れ顔で返してきました。
「……お前を迎えに行ったんだよ!というかどうやって帰ってきた!」
30分後に帰ってきた母はと言えば、「ありゃ、お帰り」の一言のみ。父の肝っ玉が小さすぎるのか、母のメンタルが強すぎたのか。10年経ってもわかりません。

当時の、発災から24時間程度のことを書き出すとざっとこんな感じでしょうか。沿岸部へのおにぎり仕出しの手伝いや水不足、見る気にもなれないけど見るしかなかったニュース、地震で割れてしまった中学の卒業記念品。学校が再開するまでのゴタゴタも、今でも結構はっきりと覚えています。
明日は確かに発災からちょうど10年の節目ですが、「なんでもない普通の平日」でもあります。どう向き合うかは人それぞれでいいと思います。当時のことを考えすぎてきつい気分になってしまってはどうしようもありません。心身ともちゃんと落ち着いている時に防災グッズを見直したり、避難経路を確認したりしてください。考えられる時に考えて、備えておくくらいで丁度いいと思います。

真面目なことを書きすぎてだんだん疲弊してきました。今日はこのへんで。


Photo by Orkhan Farmanli on Unsplash

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