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憧れの味を知る時、私は大人になる

親の好き嫌いは家庭の食事に反映されがちで、親が嫌いな食べ物は、なんとなく理由も知らされないままに食べる機会がないまま、大人になりがちな気がします。
普段の食事のメニューは、どうしたって母親の好みに左右され、なんでセロリが出てこないのかな、とかなんとなく疑問を感じながらも、セロリが出なくても、食生活は成り立ってしまうので、あまり深く考えないまま大人になりました。
セロリが家で出てこなかったことに気づいたのは、社会に出て、外でランチを食べるようになったときのこと。
ランチセットについた小さなサラダに入っていた、何かよくわからない薄切りの野菜は、噛むほどに鮮烈に清々しい香りのするもので、「あれ、これがセロリ?」と、誰かに教えてもらわなくても分かったことを思い出します。
セロリというと、誰もが嫌う野菜の中で1、2を争うような野菜で、香りの強さ故に嫌われる野菜、というイメージで、人から聞いている話が、自分の中で欠けていた体験を補って、きっとすぐに判別できたのだと思います。
なぜこんなにさわやかな食べ物をみんな嫌うんだろう、親もよっぽどこの香りが嫌いだったんだなと思い、後日母に聞いてみると、実は食べず嫌いだったということが判明して、不意をつかれた気持ちがしたのでした。

食卓に上らない「憧れの味」

母は、食べず嫌いもありますが、普段の食事では面倒だからか、出さなかった料理がいくつもあり、なんでうちではあれが出てこないんだろうなあと考えてみるものの、子供の頃の自分は料理をしないために、それが面倒だという考えには及ばず、出てこないメニューは「憧れの味」として、いつか大人になったら食べてみたいもののひとつへと変わって行きました。
不思議と親元にいる学生の間は、憧れの味となったそれらの料理を食べる機会がなく、そのまま親元を離れることになりました。

食に関する教育という点で、わが家は割と進んでいたように思います。
行事食はきちんと作って出す、という、割と一般的なルールを大枠で設けながら、私や弟が思春期になったあたりから、ちょっと変わったルールが出来て、「男の子には良いお酒を飲ませ、女の子にはおいしいものを食べさせる」という方針のもと、私は母に外食に連れて行かれるようになりました。
母がおいしいと思った、ちょっと洒落た食事やデザートを楽しむために、出かける場合もあれば、家で料理を教わる場合もありました。
それまで、母から料理らしい料理を教えられたことはなかったのですが、中学生になって初めて、オニオングラタンスープの作り方を教えられました。
寒い冬の、土曜日の昼下がり、母とふたり、台所の行平鍋で飴色になるまで炒めた玉ねぎにスープを足して、器に入れたらチーズをのせたバゲットを浮かべてオーブントースターへ。
今までに経験したことのないおいしさの扉が、そうして開いていきました。
母曰く「男の子はあんまりおいしいものを知っていると、結婚した時相手が困るからダメ。ただし、良いお酒を知っていないと社会に出てから困る。女の子はおいしいものを知れば、自然と料理がうまくなる」
教わるわけではなくても、体験として自然と身につく味というものがあるのだろうし、そうして得たものを自分なりに本を読んだりしながら形にしていくのかな、と今は思っていたりします。
料理を覚える時、きっかけとなるのは2つあると思っています。
母が初めて教えてくれたオニオングラタンスープのように、新たな味覚の扉が開くタイプの料理を知って、作ろうと思うようになる場合と、形は知っているけれど、家で出ることも、外で体験することもないままに、食べてみたくて作ってみる「憧れの味」。
後者は案外シンプルなのですが、何故か自分で作るまでたどり着かないことが多いものだったりするのです。

丸のままの魚を買うという「挑戦」

シンプルでありながら、親が作る食事の中では出てこなかったもの。
それは、丸のままの魚を使った料理です。
骨のやわらかいイワシや、ワタがおいしいサンマは出てくることがありましたが、それ以外は出てくることがなかったのです。
「なんで干物とか、粕漬けとか、煮物だけしか、魚は出てこないんだろうか」と思い始めたのは小学校5年生くらいのことで、そんなことを考えつつも、親に聞くことはなかったのです。
まだ幼かった頃、弟が、鮭は切り身の姿で川を泳いでいるものだと信じて疑わず、親を驚かせたことがあったのですが、これはどうにかしないとといいつつも、わが家の食卓に鮭は切り身で並び、アジは干物で並んでいました。
長年の「なぜ」を抱えたまま、親元を離れてひとり暮らしを始めた時、割と早い段階で丸モノのアジを購入しました。
アジを購入する時、魚屋さんで内蔵を取ってくれることは、スーパーでアルバイトをしていたので知っていました。
パックに入ったアジを手に取り、お店の人に内蔵を取ってくださいと頼んで購入し、部屋に戻って買い物袋から取り出すと、料理の基礎が書いてある、オレンジページのムックを手に、塩焼きの作り方の手順通りに塩を振って飾り塩を施し、魚焼きグリルへ。
焼き上がったアジは、初めて手にする「丸のままのアジの塩焼き」で、なんともいえない感動があったのを覚えています。
パリッとふっくら焼けた旬のアジは脂ものっておいしく、それ以降何度となく私の家の食卓を飾ることになったのでした。
他にもいろいろあります。
例えば、柵取りしてあるお刺身を切って出さないとか、天ぷらはうまくないので普段はフライが多いとか、きちんと出汁を引かずにほんだしを使うとか。
柵取りしてあるお刺身をおいしく切るのは、良い包丁があっても素人には至難の業だし、天ぷらを上手に揚げるのにはコツが要ります。
鰹節と昆布を使っておいしく出汁を引くのは、結構面倒くさいことです。
母が家族の食卓に登場させなかったこうしたものは、大人になって自分が料理をすると、その面倒臭さがよくわかるというものでした。
面倒くさい料理をしないけれど、食卓を彩る料理はおいしいものばかりなら、それでいいじゃないか、と今は思います。
今は山盛りのコロッケが積まれた大皿や、山程作ってドンと出された青椒肉絲が懐かしいです。

高級な料理よりも、みんなで笑って囲める食卓を

母が銀座のクラブのホステスをしていたということで、食には恵まれていたかも知れません。
時々お客さんがすごいごちそうをおみやげに持たせてくれたり、出張にでかけた時にお土産にと送ってくれたりしたからです。
大きなタッパーに冷凍されて届く、北海道のいくらの醤油漬けや、銀座のお寿司屋さんのばらちらし、有名パティスリーのホールケーキなど、朝早くに叩き起こされて食べさせられたりしていました。
でも、今思うとそうしたもののすべてが、家族に好評だったかというとそんなこともなく、「ふぐはおかずにならないからもうやめて」と弟に懇願されたりしていて、親も苦笑いしていましたが、そうした「味」を覚えることが出来たのは、ありがたいことだなと思っています。
アジは干物でしか出てきたことがないし、出汁はほんだしだったけれど、そこには家族の笑顔があって、楽しかったのだから、それがいちばんなのではと思えます。
「憧れの味」を自分で作って覚え、それに隠された意図も知り、ようやく大人になれた気がします。
いつか母に、私が憧れていた料理を作って、うちでは出なかったよね、と話したいと思っていますが、母の年齢を考えると、そう遠くないうちにしないことには、きっとその話は出来ないままかなと思ったりもします。
実現できるといいなと、今は思います。

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