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Masterへの道

以下、Master=マスター とします。
マスターについて投稿します。

マスターとは何でしょうか。
「ねえ、マスター、作ってやってよ・・」の歌にもありますように、喫茶店等の店の主人がイメージできます(知っている人はかなりレア?)。
英語としてmasterの意味を調べると、以下のキーワードでした。

・親方、上司
・熟練工
・名人、達人、巨匠
・主人
・勝利者
・教師、修士
など

他にもtheをつけると主、イエス・キリストの意味にもなります。
上記の意味からもマスターとは、人を導く先人と捉えることができます。
どの分野においてもマスターになることができれば、それはいいですよね。

マスターへの道とは、人を導くことができるマスターになるための「道」を指します。
「道」とは、剣道、柔道、弓道、茶道のように、しっかりしたルートがあります。
マスターになるためのルート、道程を示していきます。

これは、私が記したものではなく、ある真理を追究されている方から手書きでいただきました。
しかし、いただいてからある程度の年数が過ぎても、私はこの「道」を未だ習得しておりません。
そこで、マスターに少しでも近づくため、これから内容を噛み締めながら書いていきます。

全部で12章あります。

この「道」の背景にある源流は「愛」です。
第1章から第3章までは、無料開放します。
みなさんも、この機会にマスターをめざしていきましょう。

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第1章 私は魂であるということの自覚

魂とは何か。
魂とはE(エネルギー)である。
この大宇宙を構成するEの一部である。
大宇宙を造りあげたEを神と呼ぶ。
神はEである。
神は光である。
神は愛である。
故に、私、魂は神の一部である。
故に、力であり、愛そのものである。
魂として生きる。
魂を表現する。
愛を表現することが生きる意味である。

人間は、Body身体、Mind精神、Spirit魂、霊の三位一旦である。
私である本質は、Spirit霊、Soul魂である。
身体、精神は魂を表現するためのツールである。
私ではない。
私のものである。
私は魂である。

私が魂、神の子、神の一部であるなら、
彼も魂、神の子、神の一部である。
人間が肉の眼で彼の肉、心を見るのではなく、
私の本質が、魂が、彼の魂を見る。
彼の中に神性を見る時、我の中に神性を見る。
我も魂、彼も魂、互いに神の一部であり、神の子である。
互いに愛に満たされ、天使である。
第三の眼、魂の眼で、我の中に、彼の中に神聖を見る。
我も、彼も、神も、一つである。

私は魂であるが故に、感情に左右されない。
怒、喜、思、憂、悲、恐、驚の感情を決して抑圧せず、
まず、私の心に生じた事を認める。
その感情自体は、何も悪い事も良い事もなく、現象である。
感情を認めた後、落ち着いて、ゆっくり思い出す。
「私は魂である。
 魂は愛に満たされ、神の一部である。
 故に、この感情を抱き続けることは、愛の表現にはならない。
 愛以外のものは、自分が捨てよう、手放そう。」
このプロセスを、きちんとたどると、
感情の奴隷ではなく、感情の主人になれる。
マスターは愛に満たされ、平常心である。

私は魂であるが故に、病気にはならない。
私は神の一部であり、神の世界に病気はない。
病気と信じているものは、身体と心に自分が作りあげた幻想であり、
表れた症状である。
痛み、苦しみは、知覚であり、悪ではない。
善でもない。
幻想である。
私の本質は魂である。
身体、心に生じた現象に、翻弄されない。
私は、神の一部、魂であると自覚した瞬間から病気は消える。
病気は無い。
無である。
真は理ではない。
真理ではないことからは、目をそむける。
真理以外は、真実ではない。
真理は、私の本質は魂であり、存在するものは愛だけ。
それだけである。

愛を込めて

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第2章 肉の眼に見えるこの世界は、自己の投影である

我々が肉の眼を通して見る、この世は自己の価値判断を通した、自己の投影である。

我々の本質は魂であり、それは神の子であり、愛に満たされているにもかかわらず、何故我々は愛以外を目にするのか。
我も魂、彼も魂、魂の眼で見れば、全て愛である。
それを自己の肉と心の、フィルターを通してしまうと、愛以外を見てしまう。
それは、完全なる自己の価値基準であり、真理とは無関係である。
故に、真理以外を見ている肉の眼は、意味がない。

人は、自己の内面を他人に投影する。
A、B、Cという3人がいた場合、
Aという人物を、BとC、それぞれが見た場合、それぞれの見方がある。
しかし、AはAであり、A以外は他は何もない。
Bが見たA、Cが見たAは、BとCの肉と心のフィルターを通した、BとCの価値基準に合ったAである。
しかし、それは本当のAではない。
魂は魂である。
誰の眼から見ても魂は魂、愛は愛である。
彼も、神の子、彼も魂ということを忘れ、
肉の眼と心で見ると、見誤る。
真実は我も魂、彼も魂。
自分が肉の目と心で見える彼の姿は、自分の心の投影である。
自己の投影である。
自己の価値判断である。
全ては一つ。
我も彼も天も一つであるから、彼も我の一部。
要するに、自分の一部分を彼に見ている。
それは、自分の自己に対するこだわりである事が多い。
又は、過去の自分である。

肉の眼に見えるこの世界が、自己の投影であると知り、理解すると怒りが消える。
眼に見えるものが、自己とは別のものと考えると、怒りが生まれる。
敵意を持つ。
しかし、自分が見ているものは、自分の姿である。
これは真理である。
自分の鏡である。
過去の自分である。
何故なら全ては一つ。
我も彼も天も一つ、愛だからである。
全ては一つと見えない時、人と自分を区別する。
神と自分を分離する。
その時、自分は魂であるということを忘れている。
目に見えるものは自己の投影であると理解すると、反省の心が生まれる。
自分の直す箇所を、教えてもらっている。
自分が見て嫌なものは、自分が直す修正点である。
自分が見て快いものは、自分が伸ばす愛の箇所である。

常に、自分が魂であることを忘れない。
忘れると目に見えるものを、自己の投影である事も忘れる。
目に見えるものは、自己の投影であることを思い出し、
ただひたすら修正点を直し、
気付かせていただいた相手と神に感謝する。

全ては一つ。
我も彼も神も愛一つである。

愛を込めて

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第3章 因果律は絶対。差し出したEが還る。

宇宙には、因果律という絶対法則がある。
それは、どの様な種類のEでも、自分が差し出したものは、
全て自分に還ってくるという法則である。

良いと言われるEも、悪いと言われるEも、
出した自分に全て還ってくる。
絶対法則。

これは、原因と結果の法則である。
自分の意図に関係しようとしまいと、
創造した原因に、創造された結果が自分の目の前に現れる。

アサガオの種を蒔き、ヒマワリが出ることは絶対にない。
真理の生き方をして、真理ではない結果が起きることはない。
目の前に現れた現象は、全て自分がまいた種の結果である。
自分に責任がある。

我と彼と天は一つ。
故に、集団意識が引き起こした結果も、そこに属す人類に責任がある。

故に、人生に対して愚痴や文句はなくなる。
有り得ないのである。
自分にふりかかったと思われる現実も、
それは自然法則の下に行われた絶対法則であり、
自分の意図にかかわろうとかかわらざろうと、
差し出したEが還ってきているだけである。

差し出したEが還ってくるまでの時間差はどれくらいか。
そんな事は関係ない。
人間の脳でわかる訳がない。
わからない事を考える必要はない。
しかし必ず自分に還ってくる。

目の前に起きた現象について、自分に問うてみる。
はたして、今まで自分は一度も同じEを出していなかったか。
生きてきた中で一度も同じ心を持ったことはなかったか。

我も彼も天も一つ。
彼は我であり、我は彼である。
彼に起きたことは我に起きたことであり、
その逆もまた真なり。

目の前に起きた戦争は?もらい事故は?殺人事件は?
自分のものが盗まれたら?殴られたら?強姦されたら?

想像もつかないEを、自分は一体いつ差し出したのか?

生命は今世だけのことではない。
前もあれば後ろもある。
カルマとは解消されるべき動的Eであり、
生命の中で計算されている。
カルマの精算はいつも平等であり、生命は平等である。
今世、目の前に現れる幻想にとらわれてはいけない。
出来事は全てチャンスである。
カルマを解消すべくチャンスであり、魂を表現するチャンスである。

私が愛されるのは、私が彼を愛したからである。
私が幸せなのは、私が彼に愛を与えたからである。

自分が受け取るものは全て、自分が差し出したものである。

愛を込めて

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