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二千字ちょっとのふたり

ケータイの画面を見ながら私は迷っていた。

「ちょっとどこかで会えないかな?」

珍しい人から珍しいメールが届いた。
その珍しい人は5年前に付き合っていた元彼だ。

あれ?アドレス持ってたんだ。
とびっくりしたけれど、消さない人は
消さないみたいだし、そんなものなんだろう。

ことの発端は、彼と同じ大学にいる友達に
そういえば彼、元気にしてる?と聞いたことだった。

「あいつ、最近、ちょっと様子おかしいのよ。
授業も珍しく休みがちだし。研究室も厳しいとこだし、
バイトにも追われて、鬱にでもなったんじゃない?」

鬱か..。去年、大切な人を心の病で亡くした私には
胸の痛い話だった。

そんなこんなで気がかりだった時に届いた一通メール。
彼女が何か言ったのだろうか。
心が弱っている時、人が与える言葉の影響は大きい。
それでも、彼に会えるのか。

何もできないまま失った、あの人のことを思った。
もうあんな気持ちになるのは嫌だ。

「いいよ。じゃあ、土曜の11時はどう?
 そっちの最寄駅の改札に行くから。」

ろくな挨拶もないままメールを送った。

「ありがとう。待ってる」
彼から返事が届いた。

土曜日の昼、駅に現れた彼に驚いた。
背はすらっと伸びて、久しぶりと言った声は
声変わりしていた。

「大きくなったね〜」
そう言うと、彼はハハッと笑った。

「お前は相変わらずだな。
    でも、ちょっと雰囲気変わったな」

へぇ。あのシャイな彼がこんなことを言うなんて、
時の流れには驚かされる。
昔の私たちは、目が合うだけでパッとそらして
顔が紅くなるようなそんなふたりだったから。

顔をジッと見たけれど、やはり少し元気がない。
目の奥の光が少し陰って見えた。

「商店街の奥のお店予約したから、
 ちょっと歩こうか?」
「ああ。」

他愛のない話をした。大学のこと、バイトのこと、研究室のこと、同級生のこと。後輩たちのこと。親のこと。
お互い似たような環境なのに、私よりずっと真面目な彼は、彼に責任がないところまで背負って苦しんでいた。

「ほんとに、相変わらず真面目だねー」
「お前もじゃん。よく体もってんな。」
「私も限界きて一回逃亡したよ。この間なんてLINE
 3日みなかったら230件。不在着信20件。ビックリ」

まぁそれでもいっとき片耳は聴こえなくなったけど。
笑い話でいうと、俺は逃げ方が甘いのかもな、と彼は
笑った。

長い商店街の終わり、川の合流地点にある
こじんまりとしたレストランに入る。
小さいけれど、照明、テーブルや椅子、窓の造り、
お店の人のこだわりを細部まで感じられた。

「まさか、こんなお店に一緒に来る日がくるなんて、
 なんか変な感じだね。」
ああ。と彼はなんだか懐かしそうに笑った。

駅からの話は続いた。

「人に任せるの下手だし、
 考えなくてもいいこと考えるし、
 人の期待に応えようとする。

 だから、もう少し人に甘えて、もう少し割り切って、
 たまには人の期待に背いてみる。行き過ぎることも
 あるけど、今それをやってるよ。
 築いたものを壊してる」

彼は黙って聞いていた。

「今しかできないからきっと。社会人になって
 そんなことしたら、そっこークビだよ。
 だから今、思いっきりぶつかって撃沈して、
 その繰り返しばかり。」

まわりには本当に傍迷惑な話だ。
だけど、これから生きていくためには
大切なことだと感じていた。

今までのまま進んだら
いつか必ず壊れてしまう。

不思議なことに、私が落ちた時こそまわりが頼もしく
立ち上がってくれていた。力を発揮してくれていた。
だから、あながち悪いことでもないかもしれない、
と開き直っていた。サイテーな後輩であり、先輩であり、教え子であり、友であり、娘だった。

それでもみんな見捨てずにいてくれ、手を差し伸べ
背中を押してくれる。人には本当に恵まれていたし、
だからこうしてまだここにいられるのだ。

彼もまた苦しんでいた。
大学院に進んで研究を続けたいこと。
親の敷いたレールでなんの苦もなく不自由なく
生きてきたこと。親に地元に帰り公務員になれと
言われたこと。彼らの言うことは間違いないと信じて
いること。だけど、このまま自分の意思に反して
進んでいいのかということ。

レールから外れたことがないからこそ、
怖くてたまらないこと。外れてばかりの私は
よくここまでまっすぐこの道を進んできたなと
彼に尊敬の念を抱きさえした。

そう、彼は昔から堅実で自分に正直な人だった。
だからこそ大人になる今、苦しんでいる。

「敷かれたレールが嫌なら踏み外してもいいんだよ?
 親のために生きてるわけじゃないから。」

一度でも自分で決めた道を歩いてみなければ、
どんなに順風満帆な道であっても、いつか、
足元から崩れていきそうな不安を、いつかの私も
持っていた。彼もきっとそういう不安があるのだろう。

拙い言葉で、何かを壊したかった。
それは、私と彼の中にある、
当たり前や植え付けられた価値観。
私たちを苦しめ続けている何か。

一度は想い合った彼の心が壊れていくのを知っていて
黙ってみているのは嫌だと思った。
彼を壊そうとするものから、守りたいと思った。

ただのおせっかいだね。

「お前のそーいうとこ、いいとこだと思うよ。」

言葉につまった。まっすぐな眼差しに射抜かれる。
彼の言葉にキョトンしたのは一体何度目だろう。

素直に喜べばいいのに。

彼がしてくれることに、驚いてばかりだったあの頃。
嬉しい気持ちは彼が去ってからやってきて、
急に鼓動が速くなっては、よく机に突っ伏した。

それから一緒に食事をし、散歩をして、景色を眺めた。
あの頃のどれだけ願ってもできなかった時間を
大人になる境目で、友だちとして過ごした。

彼は少しだけ違ったのか、今の心情や
男子ばかりの環境がそうさせたのだろう。
躊躇うような手がそっと伸びてきて、
私の手を強く握った。

私はギュッとその手を握り返し、離した。

傷つけたくないけれど、ちゃんと言わなきゃ。

隣を歩きながらゆっくりと話した。
今は恋愛をする気にはなれない。
だけど、あなたのことをとても大切に思ってるし、
これからどんな道を選んでもずっと応援してる。
それだけは何があっても忘れないで、と。

こんなギリギリで綱渡りをしているふたりが
今恋をしたらどうなるかなんて目に見えている。

私たちは今、もう少しだけ戦わなくてはいけない。
でも、ひとりで戦ってるわけじゃない。
私はそれを彼に伝えられただろうか。
彼はちゃんと受け取ってくれただろうか。

もう知る術もないけれど、
彼はきっと今日も元気でいるだろう。

あの頃があったから、と言える
そんな人になっているだろう。

アルバムに写っていた笑顔に
子供から大人になる途中の私たちを思い出していた。