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こわいはなし3

家には、家という単位の中で徳というエネルギーが存在しているように思います。あらゆるものをもらえば、よいものも悪いものもとりこむことになりますから気を付けなければならないでしょう。

人に親切にして自分が損をすればその分が徳として少しずつたまっていくのでしょうが、けれどもそれは家単位ですから、一人のひとがためても貯めても、別の誰かが使えば使うだけ、減って行くのです。

少ない徳を家族が必死に取り合いをしているように私には見えることがあります。

そうしていつか誰かがその分を払わなければならなくなるでしょう。

だから、私たちはできる限り近寄らないようにしなければならず、彼らはできる限り人を集めようとします。

濁って滞った何かを、流して新しくするのはきっとむずかしいことでしょう。

それでも、きっと。

人は繰り返すのだろうと思います。

おばあちゃんのお葬式の時に結婚したとの報告をした従兄弟の夫婦が妊活をしていると母が聞いたそうです。

悲しみと喜びは1セットのようなものです。

私はいいんですか?とおもいました。そこに徳を使っていいんですか?もう枯渇しているように見えますがいいんですか?

私にはどうなるかはわかりません。

きっと誰にもわかりません。

見えないものだから、どうしようもないのでしょう。

けれど、見えないものだからないと考えていいのでしょうか。

譲ってばかりいてもたしかにいけないのでしょう。それでも、本当にそれでいいんですか?と私はおもって仕方がありませんでした。

あの家にいかないといけないと思うと憂鬱です。

誰がいけないというのではありません。それはすべて正しく、そして、自然で必然です。

ただ、それだけのことなのだと思います。

それでも、正しいことがよいということでもなく、見えていることがすべてでもないとどうしてもおもってしまうのです。

おしまい

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