40代最後の試合


創設32年の草野球チーム

高校を卒業と同時に地元の中学の野球部をメンバーとした草野球チームを結成した。メンバーは別れと新規加入を繰り返し、チームとして気が付けば32年の歳月が流れている。
結成当時のメンバーはわずかに3人、もちろんいずれも同級生である。
今年50歳を迎えるこの3人は、野球が好きなのか、このチームが好きなのか、もう人生の一部分として形成されている。

センスがなかった小学生時代

小学生時代、地域の子ども会にソフトボールクラブがあった。
同級生がたくさん入っていたので、自分も楽しめるのでは?と甘い気持ちで加入してみたものの、時代は昭和、厳しさが当たり前の時代である、「下手くそ、ちゃんとボール見ろ」など、現代では考えられない罵詈雑言が飛び交う。
子供心に、「あぁセンスがないんだな、(他の同級生を見て)あんなにうまくボールを捕れないし、打つこともできないな・・・」
と打ちひしがれて、やがて離れていってしまった。
もうソフトボールや野球は触れることはないと思っていた。

中学から高校は?

身体を動かすスポーツは清々しい気分を与えてくれて、とても好きだった。
中学入学時はサッカーがいいな、と思っていたが、私は人より足が遅かった。あきらめて卓球部は入ったが、走ることばかりで、ラケットを握るまでもなく飽きて退部してしまった。中1の夏休みに暇を持て余しており、たまたま同級生の家に遊びに行ったとき、「夏休み、毎日何してるの?」「部活も辞めたので、特になにということもないよ」「暇なら、空手部に来ないか?、何もしないよりマシだろ?部員を募集しているんだ。」
当時、同じクラスの男子生徒にいじめを受け始めて精神を病み始めていたころだったので、球技以外のものに全く興味はなかったが、誘いのままに入部した。これがキッカケとなり、武道は楽しかった。練習は厳しいものの、楽しさの方が勝り、結局、中3の12月(受験前ギリギリまで)まで続けた。
最後の大会が12月にあったのである。決勝戦で負けたけど、団体戦は準優勝に届いた。
高校に入学したものの、残念ながら空手部はなかった。柔道部はあったが、この選択肢はほぼ頭になかった。剣道部に入ることにした。
走り込みの毎日で、中3の受験勉強で太った体は、十分なくらいに絞り込まれた。厳しい基礎練習の毎日で、夕飯を食べる元気もなく、食卓でよく眠ってしまっていた。体力的について行くのがやっとだった。
しかしこれは序の口だった。剣道着を着用し、実践稽古の厳しさは半端なかった。特に顧問がめちゃくちゃ怖かったのである。当時の剣道部は男女一緒に練習していたが、先輩方は顧問の先生の稽古付けで、しばき倒されていた。手を抜いて練習しているのがバレると、顧問から呼び出されて体育館の端で1対1の練習で、ボコボコにされる。
これを1年生の私が見て、震え上がらない理由はない。
厳しい毎日の練習で足の裏はずるずるにめくれて、歩くたびに痛みをかかえながら、「これはもう続けられない・・・」と思った。

野球への目覚め

剣道部を退部し、何もすることがなかった。
中学時代に私を空手部へ誘ってくれた同級生が、「最近、何してるの?」「剣道部を辞めてから、特になにも・・・」「バイトとか、どう?一緒にやらないか?」
またもや簡単に誘いに乗った。
大阪の繁華街のハンバーガーショップでバイトすることになった。
社会への第一歩である。これがなかなか面白かった。しかもお金がもらえる。当時時給650円で見習い期間後は680円だった。いまでは考えられない時給である(笑)。
とある日、同じ中学の野球部だった同級生から練習試合があるんだが、一人足りないから来てくれないか?という誘いがあった。
「俺は下手だからやめとくよ」と断ったが、「ヒマなら来てくれ、頼むよ、上手い下手は関係ない」ということで、しぶしぶ参加した。
グラブも持っていなかった。兄の古いグラブを物置から探し出した。
試合後、誘ってくれた同級生は、「どう?楽しかった?よかったら続けないか?これから上手くなればいいんだよ。」
この誘いは私の運命を方向づけた。野球は楽しかったのである。
自分の体内に血がながれていく喜びを感じた。

渇いた砂漠に水~野球に浸かる~

高3になると進路をどうするか?大学への進学は決めていたが、行きたい大学がなかった。その先の就職を考えて実用的な学問を選ぶべきか、好きなものを選ぶべきか?
いくつか受験したものの、すべて不合格だった。最後にここを受けようと思っていた大学があったのだが、野球を誘ってくれた同級生が、「俺は〇〇大学への入学が決まったんだけど、良かったらお前も来ないか?」
聞いたことない大学名だった。しかも最後に受けようと思っていた大学と受験日が同じだった。どうしよう?とは思わなかった。同級生が勧めてくれた大学を受けることにした。
法学部は落ちたが、経済学部に受かっていた。両親は喜んでくれた(笑)。
入学後、軟式野球部に入部した。(硬式野球部はプロ野球選手を輩出したほどの強豪で、とても素人が入れるところではなかった)
この軟式野球部がまた強かった。強豪の高校から卒業してきたエリートプレイヤーがゴロゴロいた。この先輩方に紛れて、練習を積んだ。同期には甲子園に出た者もいた。とにかく野球ばかり、毎日が楽しかった。
これだけでは飽き足らず、地区の軟式野球連盟に加入して、大会にも出場するようになった。

40代最後の試合

40歳で迎える最後の試合は、7番ライトで出場。外気は35度の酷暑である。立っているだけでも、汗がながれていく。スコアは両チームともに0点で更新していく。
第一打席は簡単に速球で2ストラクと追い込まれ、最後にスライダーであえなく三振。
最終回のオモテ、相手の攻撃が爆発し、ホームラン3発を撃たれ、ピッチャー交代するも、追撃の2発を浴びて、撃沈。
最終回のウラ、最終打席が巡ってくるかな、回してほしいと祈りながら、あっさり2アウト。前の打者が鋭いライト前で、出塁。打席に向かおうと持っているバットをふと見たら、芯の部分が割れている。SSK製のNICE HUNTERである。もう15年ほど前に家庭の事情で辞めてしまったチームのメンバーからの譲りものである。
先の打席で、ファウルのときに割れたのかな・・・もう一本のバットで向かった40代最後の打席は、1・2塁間を割らず、鋭いファーストゴロでGAME SETとなった。
思えばバットだけでなく、ズボン、ベルトもボロボロになっている。
お疲れ様の装備品たち、そろそろ新調しようじゃないか。
次の大会では50歳になっている。50代の野球はさらに楽しくなるだろう。

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