禅の呼吸法について
インドには考えられるあらゆる呼吸法があるようである。また仏教以前の古代中国付近にも呼吸法はあったようである。この事から私見では呼吸法は特に黄色人種の人間の文化として数万年前からつちかわれてきたことのように思われる。
禅の呼吸法にもインド式の奇抜な呼吸法があるのだがー例えば肺で息を吸って下腹で出すとか<重点はやはり臍の下腹>ーほとんどは下腹の腹式呼吸で、吸う息は普通で吐く息を長くしてそこに意識を集中というものである。
坐禅中の呼吸については、普通の呼吸で良いというのと、上記の呼吸法とがあるが、わたしは普通の呼吸で良いと思う。なぜならば、呼吸というのは坐禅の本質ではないと思うからである。坐禅と言うのは自分の精神に抑制という刺激を与えて#ある程度続けると変化を来たらすというものである。これに呼吸法は関知していないとわたしは思う。精神が落ち着くというのはその一つの過程である。
※人によって効果が違うと思うのだが、呼吸を精神集中の手段としたり、呼吸によって坐禅に気を入れたり気迫を込めるということはあると思う。
※特に一人で頑張ってまずい坐禅をすると精神的な苦しみが増すという事が一時的にある
ただ坐禅が進んでくると呼吸はゆっくりになるという事はあるし、激しい悩みの中で頑張って禅の呼吸をやってみると、しばらくするとなんとなく気持ちが楽になったという経験はあった。ただこれで決定的に苦しみ悩みがなくなったという事はなかった。そんな事からこれを記したのである。
#付記 #
自分の精神を抑制ー宇宙、諸法、他者、感性、無、神、自然、反省、懴悔、美、芸術、自覚などが自我を否定ーするということで意識が無意識化されると思われるが、これは洗脳の逆である。そして洗脳と同じで効果がすぐ現れるというものではないだろう。この坐禅の意味が明らかになるならばそれは坐禅の原因論的な科学である。これは研究されようともしていない。これには精神の因果という概念の理解が不可欠と思われる。またこれが可能なのは、原宇宙という物質がその一部である自分の体も含めて、実は認識されたもの、こころであるという事が真実でなければあり得ないことである。なぜならそうでないなら、宇宙の人間にとっての実在が、心的な努力によって変化するという事はあり得ず、我々はただの物質以上のものではない事になってしまい、心はといえばそれに金魚のうんこのように付随しているだけのものという事になってしまうからである。宇宙は物質ではなく心である。このnotoではこういう話はせずあくまで常識的な禅についてのみ話す予定だが、興味のある人は私のブログの主要な話題なのでそちらへどうぞ。また一部Xでも雑談的にポストすることもある。