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プレゼント

「らしい」、「ぽい」って何?


「その服○○らしいね!」、「好きそう」、「持ってそう」。これって何を基準に思って、それを本人や誰かに伝えているのだろう。既存のカテゴリーや属性にあてはめ、私を理解しようとしたり、理解したつもりで自分のことを語られることへの嫌悪感がある。お菓子作りが好きだと言えば、「女子」だから、とか女子力が高いと言われる。古着が好きだと言えば「古着系」の「女子」と一気に二つの型にはめられる。

私を一人の人間として見たときに、これまでの話し合いや関りを通じて、これが好きそうとか、似合いそうとか、何かを勧めてめてくれるとか、プレゼントしてくれることは素直にうれしい。これは、古着系女子っぽいものを選んでプレゼントを選んでくれるのとは違う。この違いが何となく直感でわかると思う。


社会のフィルター


他にも、「今この状況で△△(私の友達の名前)ならこうしたと思う、こう言ったと思う」といわれたことがある。私の言ったことや考えが正しくないことを伝えるという文脈でだ。私は正しくなくて、一般的ではなくて、普通ではないことを発言したと、友達の名前を挙げることで伝えられた。二人の話をしているのに、二人の中に一般性や普遍性を持ち込まれたのだ。一般性、既存のシステムやしきたりのフィルターがその人と私の間にはあったのだろう。私はそのフィルター越しに見られていたに過ぎず、そのフィルターを基準に話を進められていたのだ。

だからこの時、私のことを何もわかっていないと思った。個人としての私を見ていないのに、○○はこれが好きそうといわれることが嫌だった。勝手に私を知った気にならないでほしいとまで思った。

何でも加工する時代


逆に、ずっと一緒にいたいと思う人といるときの居心地の良さというのは、フィルターがないからなのだと思う。私がそう思える人は多くはない。「ぽい」という言葉を使うこともないし、私の話や考え、身につけているものはそれ自体で肯定してくれる。その時、既存のカテゴリーやフィルターを介することがない。

勝手に加工されるのはごめんだ。そう思っているからこそ、人と関わるときにフィルターを通じたり、その人のイメージを加工しない。それはそれ、と認知する。自分自身のこともそうである。
でも今の時代、すにコミュニティやカテゴリーを使って自分や人の属性を判断したりする。私が人に頼んでいなくても、勝手にそうされてしまうこともある。気にしたくないはずなのに、これを選んだらまた○○らしいね、と言われてしまうかもしれない、と考え込むこともある。

自己を認識するには社会や社会に存在するカテゴリーを介するので、そうなるのも当然なのだが、あまりに細かい、詳細なグループ分けがなされている。勝手にカテゴリー分けして私の持つ自分らしさを構築してほしくないと思いつつも、それは避けられない。


誰が自己を認識するのか


自分と他者、自分のことを理解しやすいのはどっちなんだろうか。主観的な自己認識には理想や憧れが混在するため、正確性や現実性に欠ける可能性がある。一方、他者から見た自分というのは、客観性が保たれている。その客観性のおかげで正確性や現実性が保たれているのかもしれない。きっと、他者の認識の「正しさ」が自分のものよりも優れていると思っているからこそ、彼らにも、自分と同じような認識を持っていてほしいと思うのだと思う。


私から他者、他者から私という流れの中で自己認識や承認が行われる。私と他者の中で移動する自己認識や自己は純粋なものではない。必ずフィルターを通すのだ。だから、自分のもとに自己認識が入った透明な箱が帰ってくるときに、勝手にラッピングがなされている。その内部は見えなくなっている。きっと多くの他者がこのラッピングの印象で私を見ているのであって、その中にある、私の好みなどは見ていなかったのだと少しがっかりする。でも、もちろんその箱のまま「いいね」と返してくれる人もいる。そのほうが私にとってはプレゼントなのだ。