吹雪の中のベルヴェデーレ宮殿と接吻
2020年3月29日(日)
もう3月も終わろうとしているのに、横浜はすっかり一面銀世界になっていた。こんなに雪が降るのは今年初めてなのではないかというぐらい吹雪いて、昨日までの温かかった気温が嘘みたいだ。
せっかくしまったコートを引っ張り出して、お湯を沸かしてコーヒーを入れる。
窓の外ではごつっっと音を鳴らして屋根に積もった雪が落ちていく。
こうして吹雪く雪を見ていると、もう8年ぐらい前になるウィーンの旅を思い出す。
あれは22歳の時。2月だった。
2月にウィーンに行くなんて寒いに決まっているのに、私は1週間のウィーンの旅を決めた。
この旅はウィーンに始まって、イタリア・フランスへと続く1か月の旅の始まりで出発地点をウィーンに選んだのは友達が住んでいるという理由だった。
音楽の都と呼ばれるウィーンだから、ウィーン少年合唱団を見るのも楽しみだったけどそれ以上に世界遺産に登録されているウィーン歴史地区が楽しみだった。
美術館や博物館も山ほどあったから滞在中はスケジュールをびっしり詰めていた。
日本も寒かったけど、ウィーンは想像以上に寒かった。寒さで頭痛がするぐらいだ。体感温度は-20度らしい。北海道なみの寒さと称されるが、北海道よりよっぽど寒いような気がした。
とはいえ、ウィーンに到着して1日目は晴れた空の下思い切り市内をお散歩したりと楽しんだ。2日目もシェーンブル宮殿へ行って、ザッハトルテに舌鼓を打って、アルベルティーナ美術館の美術品にうっとりとした。
ただ、私にとってメインは3日目だ。
大好きなクリムトの絵があるベルヴェデーレ宮殿、ウィーンのランドマークであるシュテファン大聖堂、自然史博物館、ウィーン美術史博物館…
1日に美術館と博物館を3つもはしごするわけだから、前日からふわふわした気分のままベッドに入った。
朝になると愕然とした。
すっかり一面銀世界だ。それでも旅は待ってくれない。今日行かなければ、楽しみにしていた美術感と博物館にいく時間がないのだ。
日本から持ってきた洋服をできる限り気重ねて、お腹にも背中にもカイロを張りつけて、帽子をかぶりマフラーをぐるぐる巻きにして気合を入れる。
よし。
一瞬で顔が氷のように冷たくなる。手先が寒いを通り越して痛いぐらいだ。
そしてたどり着いたのがベルヴェデーレ宮殿。
バロック建築の傑作と呼ばれるこの宮殿は、オーストリアで最も重要な美術コレクション、グスタフ・クリムトの作品を24点もコレクションしている。
中でも「接吻」は、美術を勉強している人だけではなくても知っているぐらい有名な作品でオーストリアの美術作品の中で最も知名度の高い作品でもある。例にもれず私もクリムトの絵が大好きで、本物を眺められることをどれほど楽しみにしていたかわからない。
だからかもしれない。一面真っ白で、雪女王が支配しているかのように真っ白の世界の中で私一人だけ浮足立って意気揚々と足を取られる雪の中をスキップ交じりで歩いて行った。
その場所に少しづつ近づくにつれ、もうこの喜びを誰かに押し付けてしまいたくなるぐらい待ち遠しい気持ちになる。
それと同時に、もっと勿体ぶって欲しい気持ちもある。
そんなせめぎあいの気持ちと共に吹雪きの道を歩いて行った。
私は寒いのが好きじゃないし、横浜生まれだから積もった雪の中を歩くのも慣れていなくて結構なストレスだった。ストレスだったはずだった。
なのになんだろう。この楽しそうな私は。
旅先で雪が吹雪いていたのにこれだけうれしそうなのは、後にも先にもきっとこの時だけだろう。
結局ベルヴェデーレ宮殿を出るころには雪は止んでいて、ウィーンの市内を観光するときは寒いながらも雪に苦労させられる事はなかった。
クリムトの絵はもちろん素晴らしかったし、とても満足した。
でも、私の記憶に深く残っているのは待ちに待ったクリムトの絵を見ている瞬間ではなく、恋焦がれた場所に行くために吹雪きの中歩いたベルヴェデーレ宮殿までの道だ。
雪しか見えなくて、本当は美しい庭園が広がっているのだろうけど何なのかまったくわからないような真っ白の景色だ。
でも、その道の地こそが私にとってはとても幸せな時間だったように覚えている。夢にまで見た場所やモノを見るときは、もちろんそこに行きついた瞬間は最高に幸せだけど、そこに行くまでの過程を踏むことも幸せだ。
その過程を踏んでいる間は、もどかしい気持ちもあるけどそんな気持ちさえも愛おしい。
そんな事を、春の始まりにふった雪の中ふと思い出した。
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