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ママと息子の勉強タイム

インドネシアの鈴木です。
暑かった日本での夏休み。今年は、息子の日本の学校デビューというイベントがありました。

息子も小学5年生になり、そろそろ将来自分がどこで、どういうふうに生きていきたいかを考えはじめる歳。日本人でありながら、日本を外から眺めることの多い息子には、日本の学校に行って、ほんの一面とはいえ日本の社会を自分の目で見て経験して欲しいと考えていました。

今までは夏休みに夫を一人、家に置いていくなんて寂しがるだろうと思ってできませんでしたが、今年は仕事も忙しく、平日も休日もほとんど家にいません。これはチャンス!とばかりに、夫に夏休みの日本行きを相談したところ快諾してくれました。
息子には、「ママからのお願い。今年の夏はママと二人で日本に帰って、日本の学校に行ってみよう! 行ってみて嫌だったら、その後は日本一周、駅弁の旅をしよう!」ともちかけ、半ば強制連行。とはいえ、学校に行けば、すぐに友達もできて、次の日も行きたいと言うのは織り込み済み。「日本の学校は、給食があるんだよ!」と訳の分からぬエールで送り出しました。
彼にとっては夏休み。勉強はいいから、とにかく楽しく、日本の文化、価値観、美徳を感じとって欲しいと思っていました。

ところが、1か月の学校生活を終えた息子は意外にも、
「ぼくは今の(ジャカルタの)学校では基礎的なことが学べてない気がする」と言い出します。
よくよく話を聞くと、漢字や算数の問題など、周りのみんなは解けているのに、自分は解けず、あれ?と思ったらしいのです。クラスメートが当たりまえにできることが自分にはできない、という事実に直面して「僕、大丈夫かな?」と思った様子。

そんな息子に私は、「あら、そう思うの。あなたにはママが小学生だったら途方に暮れてしまいそうなことも自分で解決してきた知恵も経験もあるから大丈夫」と伝えつつも、「おっ? これは(実は私が)課題だと思っていた国語と算数を勉強させるチャンスかもしれない」と思い、「そうねぇ、あなたが必要だと思うのなら、ジャカルタに帰ったら、国語と算数の勉強をしてみる?」と誘ったところ、「そうする。」とのこと。ただ、ネックは「ママと一緒に」。塾に行くのは嫌だそう。

私は過去に、息子に漢字ドリルや計算ドリルをやることを提案して始めてはみたものの、嫌々やる息子、やる気のない息子と喧嘩になり、私も嫌になって辞める、という経験を何度もしています。それらの経験から、子どもの習い事は他人に任せた方がお互いのため、と思っていました。
でも、ジャカルタの交通状況(渋滞)を考えると、外に出かけて行くのは私にとっても負担が大きい。それに、いわゆる受験勉強が必要なわけでもない。どうしよう。

そこで、今回は同じ轍は踏まないよう、ママとの勉強はやらせるものではなく、私も腹をくくって一緒にやるもの、勉強時間は私の満足のための時間ではなく、息子の満足のための時間、と心に決めました。
その結果、家での勉強タイムに息子が疲れていてイライラすることはあっても、今のところ、表面的には私も平静を保ち(時々ため息ぐらいはつきたくなりますが)、お互いに投げ出すことなく続けています。
途中、険悪な雰囲気になっても、必ず笑って気持ちを切り替え(息子の気分を変えるのは本当に簡単! こちょこちょで一旦笑ったら、彼からハグをしてきて復活です)、息子自身が、「僕、今日も頑張った!」という満足感をもって終えることができているように感じます。

こんなふうにさらっと書くと、いかにも決意しただけで上手くできたようですが、実はここには、私が今まで(10年以上!!)やってきた様々な失敗の経験と、そこから学んだアレコレが投入されています。
息子のその日の状態をよく見て、勉強タイムへの気持ちの向き具合によって内容を微修正したり、課題を与えて放置ではなく、息子との勉強時間を私の生活時間の中に組み込むなど、私が自分のやり方を変えたことは少なからずあります。

そのなかでも一番大きかったのが、息子が生まれてこのかた、しっかりと握りしめて放さなかった「私のべき」、「私のやり方」で息子をコントロールしようとすることを控えたことです。

例えば、今、私が息子に求める学びは、論理的思考の基盤づくりと、日常生活で使う数の概念、抽象的な概念を理解し表現できる日本語能力ですが、具体的に何を題材にどう学ぶかは、彼が興味を持って取り組むものにあたりをつけつつ、本人に選ばせることにしています。
やり方についても、以前は基礎からひとつずつ、完璧に仕上げてから次へいく、自分の興味や必要性とは関係なく、与えられたカリキュラムに則って全てを網羅するなど、私がやってきたことをそのままやろうとしていました。
しかし今は、点描のように、息子の興味や必要性といった色の異なる小さな点を少しずつ重ねていくことで、最後には彼自身をかたどるひとつの絵ができあがる、そんなイメージでやっています。

それは、息子が大切にするものを私も大切にし、方向性を示しつつも、彼が自分のことを自分で決めることのできる余白を必ず作るということでもあります。
というのも、私と息子では自分にとって何が大切で、何を判断の指針としているのかが違うからです。

私は、親が、先生が、社会が求めている課題を敏感に感じ取り、周囲の課題を自分の課題として捉え、それに応えることのできる自分、期待以上のことができる自分に喜びを感じてきました。
一方息子は、もっと自分基準の、内から湧き出るものに従って動いているように感じます。私が常に周囲の欲するものは何か、それに対して自分は何ができるのか、という視点で物事を捉えているのに対して、彼はもっと自分に正直で、その自分にとっての良きものを追求することに喜びを感じているようです。

このように、私と息子では、世の中を見る視点も違えば、動機づけも違う。それを知らずに、私が私のやり方で、私が良いと思うものを押し通せば反発されるのも当然です。
その反対に、子どもが己の欲するところに従い、自分で自分のことをコントロールできる余白を作れば作るほど、子どもも親の希望や、やり方にも耳を貸し、その上で自分で判断して決めていくということも知りました。
今更ながら子どもとの心地よい距離感や、相手の意思を尊重し思いやることを学んでいます。

2024年9月30日
インドネシア/鈴木真理恵 
NPO法人ハートフルコミュニケーション認定ハートフルコーチ



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