子供をどう見る?〜性善説と性悪説〜
今日は、年に1度の授業公開を行い、指導を受ける機会がありました。いわゆる指導主事訪問というものです。
指導を受けるとあって、この日は、管理職も職員もいつもと違った雰囲気を醸し出していました。まぁ、正直、そんなに特別視するイベントではないと思うのですが、みんな気を遣った1日になります。
そんな今日、授業を参観してもらい、指導を受けるわけですが。。。
そこで、タブレットの使い方について、そもそも考え方が違うのだぁと思う場面がありました。
1 タブレットでの検索について
学習で、さまざまな情報を収集しようとするとき、調べるためのキーワードを提供して、ある程度自由な検索をさせるのか、はたまた、担任が「このサイト」と限定して、検索させるのか、扱い方はさまざまだと思います。場合によって、どちらもあると思うのです。
ただ・・・
2 ある程度の自由に検索をさせると・・・
ある程度自由な検索は危険が伴うため、担任がどの児童がどのサイトを閲覧しているか、把握しなければならないという意見がありました。検索ワードを与えたとしてももちろん、そういうことはおきますよね。こんなに情報化が進んだ時代ですもの、そりゃあ、余計なサイトをたまたま見てしまうこともあるでしょう。そういう時だなのです、今は。
そもそも、担任がどの児童がどのサイトを閲覧しているか全て把握するって、可能でしょうか。厳しいですよね。正しく、適切な、そして効果的な使い方を継続して教えていくことが必要なのだと思います。なんだか、「どの児童がどのサイトを閲覧しているか、全て把握する。」という言葉に、管理主義的で、教師主導で教育を行っていくという考えが隠れているような気がしてなりませんでした。
3 子供は性善説?性悪説?
そもそもその発言をした職員は、「子供は悪いことをするもの。ルールを乱すもの。だから、その悪い部分を軌道修正していく必要がある。」という立場から物事を考えているのかなぁとふと考えてしまいました。何をしているか監視して、間違いをおかしたらすかさず、指摘して修正する。そんな感じでしょうか。
性善説、性悪説、どちらも子供をよりよく成長させようとする考えは共通だと思うのですが、学校の教育場面では、性悪説の立場から子供と接すると、子供は息苦しいのではないでしょうか。見張られて、失敗は指摘される。
どの立場から子供達と関わるかによって子供の成長は大きく変わると思うのです。私は、どちらかといえば、性善説よりです。「子供の良いところを伸ばして、成長を促す。」ということを意識しています。子供の成長を促すためにどちらの立場に寄るか、関わり方が大きく変わります。
タブレットの検索のさせ方という話題から性善説、性悪説について考えた今日一日でした。