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Heart Cocktail @ とみなが3

とみなが40周年感謝の会
2024年3月5(火)から8日(金)迄勤務しております。

午後6時から11時
おひとり¥4,000飲み放題

とみなが40周年に寄せて
富永京子さんの個人史パート1

京子さんは昭和14年生まれ
世田谷区奥沢のご出身
2歳年上の兄、2歳年下の弟の間にはさまれた
“なかんちゃん”である。

父親は日露戦争中1905年明治38年の生まれ
職業は朝日新聞記者
母親方の祖父も朝日新聞記者であったという。
弟さんも朝日新聞に勤務だそうだが、
京子さんとお兄さんは結託して
新聞記者をきらい
それぞれ別の仕事人生を選んだそうである。
母親は大正3年生まれで家庭の主婦。


自己主張があって学業に優れた京子さんは
女性の社会的活躍がたいへん制限されていた時代に
生きにくいフラストレーションを抱えながら
成長されたようだ。

小学生の頃作文が好きで
作家になりたいと言った京子さんに
親戚のおじさんから
「女流作家は綺麗な女の人がたくさん恋愛をして
作品をつくる職業だから」とやんわり諭されたのを手始めに、

建築家になる夢も左利きを矯正されて以降
不器用な定規使いに不安を感じてあきらめる。

検事になりたいと思ったこともあるそうだが
女の子の将来の活躍を
応援するような社会背景ではなかった時代。

女性は高等教育を受けなくても
ふつうに家にいて花嫁修行をしたらいい
という母親に対して
父親は行きたければ大学進学はしたら良いという
意見だったそうだが
学部は文化系のみ許可という制限付き

父親をはじめ周りに早稲田大学で学んだ身内が多く
反発心からか早稲田と慶応大学を受けて
両校合格後は宣言通りに
慶応大学に進学。

仏文科に進むが
大学でも仲間の輪に今ひとつ乗り切れず
大学の生活は楽しめなかったそうだ。

卒業しても当時は
大卒の女性を採用する企業はほとんどなかったという。
コネクションを得て日本テレビの就職試験に挑み
筆記試験ももばっちりこなして
ドラマ演出勤務を希望して
とうとうと持論を展開したら
煙たがられて健康診断の
血沈の数値の高さという理由を盾に
就職試験を落とされる。

失意のうちに
新聞広告で仕事を探して銀座の画廊に勤めたり
仏文科の友人から誘われて
フランスを旅したりするうち
大学の教授から君にぴったりな仕事があるから
と季刊芸術の編集業務を紹介される

そのうち兄の後輩で銀座の伝説的クラブ
“エスポワール”の経営者川辺るみ子さんを母に持つ
友人の川辺莞司氏から
クラブを立ち上げるので一緒にやろうと声がかかり
経験もないままに突然
クラブ “ドン・ジョバンニ”の雇われマダムの役職を
仰せつかった京子さん。

このクラブにバーテンダーとして雇われたのが
澤井慶明さんに斡旋を請い紹介された
ホテルバーテンダーの早川元一さんだった。

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