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短編小説 カウンターのこちら側から イスマイル奈奈恵



Intro



このあたりはかつて海岸線に近い、漁師が点在する入り江の村だったという。

ビルの一階にあるバーの奥にあるカウンターの中から外を見やって、
葦の生い茂る荒れたさみしい土地だった頃の
四〇〇年も前の風景を想像してみることが
そう難しくもない日曜日の夜のこの通りのひと気のなさだ。

平日のこの時間なら、老舗のクラブにおでんや料亭やバーなどが軒を連ねて、
夜の街らしい雰囲気を醸し出し、
間口が広くて家賃がべらぼうに高いメインストリートとは
一線を画す裏通りだけれど、日曜の夜は商売にならない。

年中無休とうたってしまった以上
日曜の出番が自分一人となるのも仕方ないけれど、
やはり週に一度くらい休んだ方が
気分も変わっていいのかなと考えながら、
帳簿の整理でもと腰をおろしたところで、
入り口の素通しのガラス戸を開けて客がひとり入ってきた。

A section: 臓器販売

「こんばんは。」

「いらっしゃいませ。おひとりですね、
カウンターの席にお掛けになりますか?」

入り口近くの店内にはテーブルがふたつと
ハイチェアがそれぞれ3つずつ配してあり、
ビルのエレベーターシャッフルの配置で狭まる
ごく短い通路の先の空間には、
斜めに蛇行する形のカウンターに9つの席。
カウンターの反対側にもひとつ
大きめの丸テーブルとハイチェアが4つ、
金曜日の夜など満席になると
23人ほどを収容できる広さの店内、
酒棚の後ろ側には小さいキッチンもある。

営業面積十二坪路面店で坪あたり三万円の家賃は、
まあ妥当な価格でしょうと
店舗不動産屋の担当者が言っていたっけ。

カウンターの中からお好きなところへどうぞと促すと、
客は酒棚の正面の席に腰掛けた。

平日の夜の男性客はビジネス街に近い場所柄、
広告代理店や出版関係などに勤務する勤め人の、
多くが標準的なスーツ姿だが、
気楽な店構えのせいか自由業、
自営業のカジュアルな服装の客も多い。

この日曜日の夜の男性客は三十代の年恰好、
第1ボタンまできちんと留めた赤いポロシャツ、
ベージュのチノパンの足元から同系色のキャンバス地に白いソールの、
歩きこんだ感じのスニーカーが覗いている。


くせのないやや長いめの前髪が
落ちてくるのを面倒くさそうにかきあげると、
端正ながら抑揚のない面立ちの眼のあたりに疲れが漂っている。

手書きのメニューを差し出すとしばらく考えたのち、 

「カクテルにしてみようかな、この、ギムレットっていうのを、
これはえーと、ジンが入った飲み物?」

「そうです、ジンにライムのジュースで作るカクテルですね。」

「じゃあそれを。」


酒棚の下にあるグラス棚から
大ぶりのカクテルグラスを選びカウンターに置く。

同じくカウンターに置いてある果物籠から、
みどり色の、果汁の搾りやすそうな皮の具合のライムをえらんで、
これをよく研いであるペティナイフで半分に切ると、
あたりにライムに特有の爽やかな香気がほとばしる。

「良い香りですね、疲れた気分がすっきりするような。」

ほっとした表情でそういうと、
楽しそうなようすでカクテルが作られている様子を見守る客は、
はじめてたずねたバーで早くもくつろいで打ち解けている。

こちらも笑顔でうなずきながら
ガラス製のスクイーザーにライムの断面を押し当て、
体重をかけながら満遍なく果汁をしぼりとると、
ステンレス製のカクテルシェイカーにライム半分の果汁を注ぎ入れる。

ギムレットを用意しながら、長いお別れという小説を思い出していた。

このストーリーではギムレットが、
瓶詰めのローズ社製のライムジュースで調合されるから、
私が今つくっているカクテルとは
ずいぶんちがったあじわいの飲み物になるだろうなと思いながら、
この小説で主人公がバーでカクテルを用意するひとを観察しながら、
バーテンダーというのは哀しい職業である、
というようなことを言っていたくだりについて考えていた。

それはバーテンダーが来る客をただ待って、
バーカウンターを無心に整えているようすをさして言っていたのだっけ。

さてこちらのギムレットは、ライム果汁のあと、
上白糖を小さじにたっぷり一杯分と、冷凍庫から、
うす白く氷をまとった黄色とオレンジのラベルデザインの
ゴードンジンのボトルを取り出してキャップを取り、
注ぎ口からとろりとしたジンを目分量で一杯分注ぎ入れる。

製氷機を開けて氷をトングでとってひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、
カクテルシェイカーのストレーナーという氷止めの中蓋部分を
ボディー部分におおいかぶせ、トップでさらにふたをしてから、
右手の親指をそのトップの上に置き、
残りの手でシェイカー全体を包みもって持ち上げ、
左手の三本の指で底を支えてから、いちどトン、
と底をカウンターで軽く打って拍子をとると、
中身が満遍なく混ざるようにカクテルシェイカーを振る。

指に氷冷でシェイカーに薄い霜のひと膜が
できあがったのを感じるあたりで動きを止め、
トップをとってカクテルグラスへ注ぎだすと、
ギムレットが踊りながらグラスの表面をうす白くかざってゆく。

「あぁ、ありがとう。きれいですね。」

客はうれしそうにカクテルグラスを受け取り、
目の高さまでグラスを上げて少しその姿を鑑賞したあと、
冷たいギムレットをゆっくり唇へ近づける。

「これはいいですね、疲れがとれます。」

ひとくちを楽しんだあと客は、
カクテルグラスを几帳面にカクテルマットの中心にもどすと、
ふうっとため息をついた。

「今日はお仕事だったのですか?」

「そう、因果な家業で。」

客は自嘲的な言い方で続ける、

「こんな夢見のわるい商売は僕の代で終わりにしたいのですが・・・。」

シンクにカクテルシェイカーを解体して
洗いながらこちらもあいづちをうってみる。

忙しい時は客のひとりひとりとゆっくり話しをする気にもならないが、
何しろ今夜は葦の生い茂る荒野のような静かな日曜日の夜だ。

客の話に興をそそられて先を促すと、

「うちの家業はね、金貸しなんですよ。」

「ほう。」

「高利貸し。」

何と続けていいものやら、シェイカーをゆっくり洗いながら話の続きを待つ。

「取り立て業務の日は本当に寝付きが悪いです。」

ギムレットを口に運びながらそうこぼすこのおとなしげな青年が、
一体どんな風に借金を取り立てるのだろう。

ふと、借金で首の回らない兄のことを思い出す。

時々ふいに姿をくらまし、数年行方がわからなくなる兄が戻ってくる時は、

たいてい新しい問題を抱えている。

そんな兄宛に、時々怪しげな金融業者から、
勧誘のダイレクトメールの葉書が来ることが不思議だった。

返せるあてのないひとにどうしてお金を貸そうとするのだろう。

「私の身内に、金融機関のブラックリストに載ってしまうような者がいて、」

兄を思い出しながら、
一見の客の青年にこの疑問を投げかけてみる気になった。

「それでもそのひとのところに、
闇金融業から勧誘のダイレクトメールが来るのですよ。」

どんなメリットがあってそんなひとに融資をするのでしょうね、
と続けたわたしの顔を正面からすっと直視し、
一息おいた青年の顔から表情が消え、無機質な調子で、
私の問いかけに問いでこう応えた。

「健康な人間なら誰もが生まれつき持っている財産とは何だと思いますか。」

言葉が継げず、問いかけをこころの中で咀嚼している間に青年は続けて、

「誰しも、肝臓、小腸、それに、肺と腎臓はふたつずつ持っていますね。」

「それはつまり・・。」

「金融機関のブラックリストに載るようなひとも
健康ならそういう担保を誰しも持っているということです。」

「では、そんな担保を目的とした金貸しがあるということですか?」 


「それはもちろん違法な闇金融の、
まさに闇の中にある業者ということですがね・・・。」

青年は残り少なくなったカクテルグラスの中を見つめている。


何と言葉を続けたらいいものか私もふと黙ったまま、
青年が右手の人差し指を、
グラスのステムの先にある円盤上のフットの部分に置いて、
行ったり来たりさせているのを見つめていた。


しまった氷冷の薄絹のようなグラスの表面の
氷滴の衣はもうとっくにゆるんで消え、
カクテルグラスの外側は汗をかいたように水滴をたずさえている。 


私はそのグラスの水滴を見つめながら、
いつかこうして水滴をたずさえたグラスを
じっとをみつめていた自分を思い出していた。

B section: 混成酒

エディのアパートの、こたつテーブルのうえに置かれたままの
私のギネスのグラスの水滴は大きくなり、
冷汗をかいているように見えた。
中には半分くらい中身が残っている。

「だからな、このカードがあることを覚えておいてくれよ。」

エディはリラックスしたようすでグラスのギネスを口に運んでいる。 
カードはみどりいろのデザインで、
臓器提供意思表示カードと印刷してあった。

「じゃあお父さんはもし死んだ時に、臓器を提供したいってことなのね。」

「そういうわけだ。」

私はうなずいて腕時計をちらりとみた、外にタクシーを待たせてある、
これが三度目のトライであった。

初めは睡眠薬をビールに混ぜてみたが、
エディは少しぼんやりとなったものの、
眠りに落ちるにはいたらなかった。

二度目は、務め先のバーの常連の薬剤師の紹介で、
患者搬送専門の医療隊員付きの送迎車の出動だった。

やっと薬で昏睡したエディを乗せて、
下調べしておいた病院へ搬入すると、
そこは福利の公費で利用できる病院ではなく軽症患者のための施設で
エディの症状に対応できるところではないことがわかった。

受け入れはできませんといわれ、
眠っているエディを乗せた担架のそばに、
がっくりと腰を下ろして頭を抱えた私の横で、
アパートの外で患者が昏睡するまで待機し、
病院に搬送してくるまでひとこともなかったプロらしい所作の医療隊員が、
病院の担当者へ詰め寄っていた。

「何とかならないのか?何とか!」 

今回は医者から処方してもらった精神安定剤を持って、
私ひとりでやってきていた。

二回分の処方の錠剤をまとめて台所で砕いて、
エディへ手渡したギネスのグラスの中に混入してある。 

色が濃く味も濃いめのギネスなら
薬の混入もわかりにくかろうと選んで、
砕いた薬剤を少しずつ混ぜると反応してやけに泡が立った。 

苦心してグラスに泡のベージュの層と黒いギネスの美しい割合を整え、
薬入りの一杯を調整している自分が何だかおかしかった。

かた、と突然エディが意識を失って、
ひたいをこたつテーブルに落とし昏睡し始めていた。

薬の効き目にびっくりする、
やはり普通の睡眠薬ではなく、
高揚している精神状態を抑える処方の薬の効用が働いているのだ。 

何しろ彼の精神状態の高揚はこのところずっと続いていた。

「二階の部屋に住んでいる奴が爆弾をつくっている。」

と言いはじめたのは何ヶ月前だったろう? 

最初無理矢理連れて行った病院は神経科で、
医者は、ここは精神科ではありませんとけんもほろろだった。

勤務していたバーのピアニスト、
けいちゃんのお兄さんが長いこと精神分裂を患っていると
言っていたのを思い出し、
一度エディを店に連れ出して彼女に精神判定をたのんでみた。

エディと演奏の休憩中に短く談笑を交わしたのち
けいちゃんは私に耳打ちした。

「本格的にいっちゃってるね。」 

日が経つにつれ夜も高揚してあまり眠れていないらしい
エディの精神の亢進はいよいよ進んでゆくようだった。 

大学病院の精神科などいろいろと当たって、
結局公費で賄える範囲の、
エディのアパートからも割合と近い精神科の病院を選んだが、
本人は病院へ連れて行かれることを非常に嫌がった。

時には攻撃的になり、
あるときには、
自分は天皇であり無礼者は切り捨てると言い放った。

またある時は急に言葉が通じなくなり、
ブロークンイングリッシュで、
自分は日本語がわからない、と繰り返した。

担当医は通院が困難であると判断して入院治療を勧めた。

C section バンスのエディ

エディはかつて進駐軍のクラブで
キャリアをスタートしたジャズマンで、
その腕前で鳴らしたドラマーだった。

将校クラブでの演奏や、パーティなど、
戦後連合国軍占領下の日本には、
主に米国軍人たちへの娯楽提供のため、
ミュージシャンの需要が急増したという。


日本のジャズシーンはここから花開いてゆくが、
エディは米国人のドラマーに師事して腕を磨き、
ビッグバンドの仕事などを経て、
やがてクレージーキャッツと人気を二分するコメディバンド、
ポークチャップを率いるようになった。


グランドキャバレーと呼ばれる数百人収容規模の大バコの店舗が、
日本各地の都市や町の繁華街に広がり始め、
フルバンドの楽団席のあるステージで寸劇やダンスなどのシヨーが展開され、
コメディバンドのポークチャップも活躍したらしいが、
ある時エディは銀座のグランドキャバレーの控え室で、
ポークチャップをセクステットの
モダンジャズバンドへと転身させると発表する。 

それは当時商業的にリスクの高い、
音楽家の野心ある方向転換だった。

ドラムのエディにアルトサックスの松本易夫、
ピアノに菅野邦彦、
ギター伊崎盛久、
コンガ奏者ジョーヤ増淵、
ベース鈴木勲、
そしてシンガーの岡本荘一と、
当時新進気鋭のミュージシャン六名を集めた
新生ポークチャップは、転身の半月後には
横浜馬車道の“ナイトアンドデイ”で連夜演奏していた。

このバンドで日本初のジャズのライブ放送も行われたという。

おそらくこの辺りがエディのジャズドラマーとしての
キャリアの頂点であったろう。

やがて年若いピアニストと結婚して所帯を持ったエディの、
家庭人としての経済的なマネージメントの腕前はしかし、
褒められたものではなかった。


私が物心ついた頃のうちの中では、
流行の歌謡曲を聞いたりする事が
なんとなくご法度という雰囲気があった。

エディが流行歌謡業界について
いちいち批判をするからで、
戦後のジャズマンとして、
時代の変化の中で音楽業界の第一線に生き残れなかった彼の、
それは悔しさから来る批判であったように思う。

エディの仕事はその後時々に音楽以外の業種で、
食肉センターに勤めたり、
やがて車でテイクアウト専門の焼き鳥屋を始めたり、
一時は赤提灯をぶら下げて居酒屋を始めたりしたこともあった。 


その傍らでアイデアマンらしく、
タムの数が20ほどもある音階付きドラムセットの
デザイン案をメーカーに持ち込んでみたりして、
いつか華々しく音楽業界へ復帰することを夢見ていたようだが、
いつもあとに借金が残るばかりで、
毎度裏方的な役回りで
家計を切り盛りしていた母を悩ませていた。

やがてエディと協議離婚をした母が、
ある時バンドマン時代を回想して言っていた。

「バンスのエディさんって言われてね、有名だったのよ。」

ミュージシャンの隠語で前借りを意味する
アドバンスを縮めてバンスという。

大言壮語に彼が夢を語るのを
人はエディランドの語り草と揶揄したそうだ。


エディはバンドの代表として仕事をとって来ると、
早速前借りをして次回のステージ用に衣装を新調したりしてしまう。

お化粧の仕方も忘れてしまったような控えめで地味な母とは対象的に、
エディは独特のファッションセンスの伊達男だった。



ジャズドラマーとしてバンマスをつとめるような
表現者としての発露を失って、
やがて奇抜な服装と行動で、
近所の人たちにはちょっと変わった面白いおじさんで知られ、
音楽家として華々しい復活を夢見る彼は、
高度成長期の当時の日本経済の発展とは
逆行する人生を生きていた。

母がいよいよ離婚を決意したのは、
エディが最後に1DKのアパートから
貧乏長屋への引っ越しを決めた時だったという。


新宿百人町のアパートに始まる新婚ジャズマン暮らしの生活から、
三多摩地区での米軍払い下げの西洋式借家住宅での
共働き子育て生活の苦労を経て、
そして結婚生活最後となったその長屋住まいには、
夫婦と小学校高学年の兄妹、
庭に雑種の秋田犬をはじめとして、
金魚の水槽、前に住んだアパート生活時代に拾った
猫から派生した四匹の猫がいたこともあった。

貧乏長屋でも小学生の頃の私は、
さほど事態の深刻さも気にならずに、
子煩悩なところもあった変わり者のエディを筆頭にした家族と、
のんきな気持ちで子供時代を過ごしていたものの、
やがて思春期となり、中学生になった私の同級生の中には、
自分の部屋に冷暖房のエアコンがついているような家に
住んでいるようなひとがいるご時世に、
同級生をこの家に連れて来ることに気がひけるようなった。


私たち家族の住んでいた貧乏長屋にはうちの他に
焼肉屋で働くてっちゃんの一家と、
ほかにもう一世帯が住んでいる三世帯長屋で、
六畳二間にトイレが長屋共有の汲み取り式、
お風呂も共有の、しかも薪の焚き付け式という
前時代的な旧式の住まいだった。

猫四匹込みの四人家族世帯としては、
到底最低居住面積水準に達しないような居住空間である。

京都の旧家で思いがけず生まれた末の娘であった母が、
この住まいを見て離婚のほぞを固めたのが
無理もない理屈であった。

母は私と兄とを連れ、2DKのアパートへと引っ越した。

離婚を言い渡されても自分の不甲斐なさを自覚出来なかったエディは、
職を転々として一度は自分の姉を頼りに故郷の名古屋へ戻ったが、
やがて東京に舞い戻ってきた。

時折私を頼りにして三多摩地区での
独居生活を始めた彼をアパートへ訪ねると、
特に収入のないエディの部屋に
突如新品のエレピなどが登場したりするようになり、
計画性のない衝動買いが復活し始め、
新米の見習いバーテンダーになっていた私を心配させた。

母は再婚していてこの状況に関与しなかった。

私はいろいろと考えた末に地域の福祉課へ相談し、
生活保護申請を出した。

申請が受理され、家賃の心配がなくなり、 
気をつけてつましく暮らせばなんとかなる目処が立った頃の、
エディの精神の破綻の始まりだった。

D.S. ダルセーニョでB sectionへ

精神科の病院をいろいろと訪ねた結果、
公費で治療を受けられるところを見つけて入院治療となった時、
医者は薬を飲ませて眠らせてもとにかく連れてくるようにと言った。

表で待っているタクシーの運転手に手伝ってもらって、
エディを車に乗せると病院へと向かった。

眠り続けているエディが病院がベッドの上で目を覚ました時に
暴れたりしないようにと
拘束服をつけられている姿はショッキングな光景で、
起きた時に彼がどんな反応をするかと思うと気が重かった。

しかし翌日病院を訪ねると、
受付から面会スペースに入った私を見つけて
手を振るエディは元気よく上機嫌だった。 

「おー、よく来たなぁ。」 

と迎えて話始める彼が事の次第を不審がらず、

「ところでどうして俺はここに居るんだい?」

と続けるのを聞いて、
やっぱり本格的にいってしまっていると納得せざるを得なかった。

それからの入院生活は一年くらいだったろうか、
精神科の治療は投薬が中心で、
精神科というと想像されるような医師との対面治療は
あまり重要な比率を占めていなかった。 

機械的な対応の医師たち、暗い、刑務所のような拘束室、
家族や社会から忘れ去られているような年老いた入院患者たち。

しかし他に私に選択の余地もなかった。

やがて薬で大人しくなり、精神状態も安定して退院もしたが
数年するとまた悪化して再び入院となった。

二度目の入院生活の終わりを促されたのは担当の医師からで、
経過が良好だからというよりは、
これ以上の入院治療で事態の好転も望めなく、
公費の施設の病床の空きを作りたいというような思惑が感じられる。

バーテンダーとしての勤務経験を重ね、独立開業も考え始めていたが、
いよいよエディの退院で、彼を背負って生きていく覚悟を迫られた。

Solo section: New York (Saxpphone)

しばらく自由な行動もできなくなるかと、
バーテンダーのギルドの国際定例会議に、
旅行のつもりで最後の気晴らしにオブザーバー参加を申し込んだ。

カナダのオタワからニューヨークへと回る旅。

旅程の最後に近い夜マンハッタンの中心地のホテルから、
ひとりでぶらりと街を散策して、
有名なプラザホテルでひとり夜食でも気取ってみようと、
軽食からカクテル、食事まで提供しているダイニングで
シーフードのプラッターを注文してみる。

生牡蠣のほかにアサリも生で提供されているのが、ちょっとめずらしかった。

クラシックなホテルの豪華なしつらえの店内には、
時間はずれの、
何かに置き去りにされたようなさみしい雰囲気が漂っている。

それでも不思議と、感傷的な気分になっている旅行者の客である私の、
ひとりの酒食を場違いに感じさせない空気は、
歴史的な大都会の夜更けの、懐の深いやさしさだろうか。

私と同様に、ひとりテーブルで食事をしている妙齢の女性客が、
ここも昔とは変わったわと自然に話しかけてくるのも、
ニューヨークらしい気がする。

会計を済ませて外へ出、
セントラルパークの入り口あたりからホテルを振り返ると、
屋上付近をバラバラとヘリコプターが飛来し、
ライトが明るく照らされていて、
映画の撮影でもやっているようだった。

帰国するとすぐ、エディの退院手続きをした。

Solo section : 滝落とし(Drums)


入院以来閉め切りだったアパートの部屋は
電話も止まったままだったが、
とにかく病院から持ち帰った荷物を簡単に片付けて、
夕食に近くのファミリーレストランへと出かけることにした。

エディは退院を喜んではいるものの、
長い間の投薬で動作がゆっくりになり、
入院明けで運動機能が低下しているようだ。
話すのも、舌のまわりが悪そうだった。
食べ物の味も変わって感じられるとこぼしている。

食事を終えて外に出ると、
曇った夕暮れの空からぽつりと雨のしずくが落ち始めている。
今夜は私もアパートの部屋へ泊まることにしていた。

さあ、明日のことは、また明日から考えようと、
早めに休むことにして床についた。
眠りに落ちながら、これからの生活の仕方や、
施設への入居などの選択について
ぼんやりと思いをめぐらせていた。 

ふと、枕元の先に続く1DKのアパートの台所の流しからの、
水の流れる音で目を覚ました。

外はまだ暗く、そして外はいつしか大雨となっていて、
激しい雨音が聞こえてくる。

「お父さん・・?」

エディは流しの前に立ち、水道から水を流しっ放しにして手にコップを持ち、
水を汲んでは口へと運んでいる。

「お父さん、」

どうしたの?
と続く問いを呑み込んで、
私は呆然とエディの動作を見つめた。


エディは水を飲み続ける、動作が止まらない、
足踏みを繰り返しながら、
コップへ水を汲み、それを飲み続ける。


「止めて、誰か、止めて・・くれ・・」


外の雨の音にかぶさって、水道の流しからの水の音、
エディが足踏みを繰り返す音、

「お父さん、やめなって、お父さん。」

彼は自分の動作の制御ができないでいる。

肩を取り押さえようとする私の手を振り切るように足を踏み鳴らし、
水を飲み続ける。

「お父さん・・どうしよう。」

電話に取り付いて病院へかけようとして、
電話が不通になっていることに気がついた。

つい先日契約したばかりの携帯電話を持っていることに気が付き、
取り出して、震える手で、退院したばかりの病院へと電話をかける。

長い呼び出し音のあと電話を取ったのは、
夜勤のアルバイト勤務者で、
状況をいくら説明しても埒があかない。

「もう結構。」

電話を切って台所に目をやると、
エディは相変わらず水を飲み続けている。


どんどんと足を踏み鳴らし、水を流しっぱなしにして、
誰か止めてくれと言いながら。

エディの顔色が変わり始めている。

救急車を呼ぼうと番号を押す、
何度も続けるのに電話がつながらない。

番号を押す私の手が震えている。

その間じゅうの、流しの水音とエディの足踏みの音を、
外の豪雨がかき消している。

部屋のドアを開け、豪雨の音の中、
隣の住人の部屋のドアを叩いてみるが
応答はない。

部屋に戻り、もう一度救急番号をかけてみるがつながらない、
大雨のせいだろうか。

初めて持った携帯電話のアドレスに、
たったひとり入力したばかりの友人の名前があることに気付き、
電話をかけてみるとつながった。

彼女に説明をして、救急車を呼んでくれるよう頼む。
電話を切って振り返る。
エディの動作は止まらない。

「救急車が来るから。」

言っているうちにエディのこめかみの血管が浮き上がり、
顔色が赤から紫へと変わり始めている。

雨音は止まらず。
救急車はなかなかやって来ない。

このアパートの部屋だけ、全てから孤立していて、
水の音だけがそこを支配している。

ぷつと何かが切れたようにエディがどーんと後ろへ倒れた。

「お父さん!」

気を失ったのだろうか。
へたりこむように腰を落としてエディの顔に手を当ててみる。

やがて水を割ってサイレンの音が近づいてきた、
赤いライトの点滅が窓に映る。
豪雨の中を救急隊員がドアを開けて現れた。

「遅くなってすみません、雨がひどくてね。」

ドアを開けたすぐのところに倒れているエディの様子を診ると、
救急隊員の二人が素早く電気ショックの器具を用意し始めた。

用意を済ませ、アイロンのような器具を両手に持ち、

「離れてください。」
と言い放つ。

通電していざそれを胸に当てようとすると、
ばつっと大きな音がして電気のブレーカーが落ちて部屋が真っ暗になった。

作業をしている隊員の立っている後ろのドアは開いたままで、
激しい雨の様子が暗い室内からはっきり見える。

「あれ?」

拍子抜けした救急隊員が、気を取り直して暗闇の中、
入口のドアのすぐ上のブレーカーのレバーを戻し、
今一度器具を通電させた、

「離れてください。」
・・・ と、再びブレーカーが落ち、
部屋はまた真っ暗になった。

沈黙の中外の豪雨の風景が浮き彫りになり、

器具を両手に持った救急隊員のシルエットの向こうに、
死神が待ちわびて佇んでいる。


エディはすでにこときれていた。



Solo section : 臓器提供(Piano)



「・・・あなたの説明によると、」 

 運ばれた先の病院の担当医は、
あからさまに不審の目を私に向けながら、
エディの検死の結果について私と警察官たちに向かって説明している。

「・・・ご本人は水を飲み続けて倒れたそうですが・・・、」

医者は今一度私を正面に見据えて挑むように続けた。

「遺体には、肺の中にまで水が入っていました。」

それは普通、溺死の時に見られることだという。 

エディは泳ぐのが得意だった。

家族で出かけた神宮プールの高い飛び込み台から、
両手を広げ、いいフォームでプールへ飛びこもうとしている、
彼の一枚の写真を思い出していた。

水道の蛇口から流れ続ける水の音、
外の豪雨の音の中、
あの乾いたアパートの部屋でエディが溺死するとは皮肉な話だった。

話を聞いていた刑事は温厚な物腰の、
コロンボのような穏やかな調子で私を促し、

遺体を病院へ残して、
今一度アパートの部屋への同行を求めた。

現場検証である。

やっとかえってきた住人を、
再び失ったアパートの部屋はぽっかりと穴の開いたような
空虚な空間になっている。

刑事と警察官は、まず部屋にしつらえの洗面と浴室を検証している。

浴槽などの様子を確認しているようだった。

退院して戻ってきた夕べに浴室は利用していないから、
浴槽も乾いたままである。

事実は小説より奇なり、なのだ。

やがて事件性なしと判断した刑事は、
私を病院まで送り届けた。

遺体となったエディと対面して、
はっと思い出したのが、
あの臓器提供者カードである。

臓器提供には死亡後提供できる時間の制限があるはずだった。



カードに記載の連絡先を頼りに電話をした。
死亡後ある程度の時間が経ってはいたが、
アイバンクの人が金属製のランチボックスのような形状のケースを手に
やがて病院へ到着した。

献眼後、角膜は二人の人に提供されるのだそうだ。

人生で多くを見失ったエディの角膜を得て、
その二人は一体、
何を新たに見つけるのだろう。

五年前に癌で亡くなった時の母の大掛かりで高価な葬儀と違い、
余分な予算もなく、晩年人付き合いもほとんどなかったエディの葬儀は
ごく簡単に済ませることにした。

火葬場での処理後、遺骨を受け取り、
彼の姉の住む名古屋へ向かい、
信心深いおばが菩提寺に確保してあった
ロッカー式の納骨場へ遺骨を納めた。

いなか住まいの、妙に理屈っぽい年長のいとこは、
エディの臓器提供に異論を唱えて、
仏教のおしえでは、死後一定の時間、
肉体は生前のままで置かれるべきだったと言った。

「何を言っていやがる。」つぶやき返した。

思いがけず急死したエディは、
いのちのエネルギーが肉体を離れ、
しばらくしてまたそこに戻ろうとしたとき、
すでに眼球のない自分の肉体に入って、
自分の肉体を通して見つめる永遠の暗闇に驚いたろうか。


エディの葬儀などひとしきりが済んで、
ひとりアパートの部屋を解約前に片付けに行った。

部屋にはガラクタじみた世帯道具が少々あるきりだが、
片付け始めると、
紙製の簡易なアルバムにしまってある、
スナップ写真がずいぶんと出てきた。

それは、エディがひとりになってからの、
散歩に歩き回った時の写真だった。

街で出会った人びと、子どもや、
変哲もない近所の風景の写真。


晩年のトレードマークだった、
ギターのストラップを改造したような、
エディのロゴの入ったヘアバンドを頭にかぶり、
アフリカンプリントのチュニックに、
高尾山で拾った、蔓のねじれの入った変わった形の木の杖を手に持ち、
ベルや小さな旗などでカラフルに飾り立てた
自家用自転車の横で立っているエディ。


がらんどうになった部屋に孤独が山のように堆積していた。

孤独に押しやられて、エディは破綻していったのだとわかった。

To Coda

「何だか、暗い話題を持ち出してしまいましたね、ごめんなさい。・・
あと、何かもうひとつカクテルを作ってもらえますか。」

青年のグラスはすっかり空になっていて、
黙り込んでいた私の顔を覗き込んで
グラスを差しながらすまなさそうに笑ってそう言う。

とりとめのない会話とギムレットで、
こころによどんでいた暗い疲れが少しほどけたらしい
青年の笑顔は屈託なく、
私も長い回想からふと我にかえって答える。

「そうですね、何にしましょうか。
私こそ興味深いお話しで考えこんでしまって、失礼しました。」

あわててグラスを受けとって微笑み返した。

店内は相変わらず青年ひとりきりで、
今夜はひょっとすると、
このひとりのお客で仕舞いかも知れなかった。

低い音でかけていた音楽も
話の間にいつに間にか止まったままになっていて、
店の前の通りにも人通りがないまま夜が静かにが更けている。

「まず、何か音楽をかけましょうね。」

舞台音響設営を仕事にしていたスタッフが
作ってくれたBGMのループも、
開店時間からずっとかけて聞き飽きたし、
ふと手元にあるデバイスを開けると、
昨日聞いていた音楽の映像に混ざってぱっと
突然Sammy Davis Jr.の姿が現れた。

「あ、Mr. Bojangles!」

「え?何です?」

青年が楽しそうにカウンターに身を乗り出した。

懐かしい音楽なんですよ、と言いながら曲を流してみる。

 “ボージャングルっていう名の男を知ってる、彼は踊るのさ、
銀髪に、よれたシャツで、バギーなパンツと履き古した靴で、“

往年のサミーデイヴィスが彼のショーの演奏曲として
必ず歌って、踊っていた、
メランコリックなナンバー。

 ”彼はそれは踊りがうまくて、高く、高くとんで、ふわりと着地する・・“

ボードビリアンの芸人の哀しさを歌う曲で、
テレビのインタビューでサミーがこの曲について話していた様子を
子供の時分に見た記憶がある。

この曲はサミーの心の琴線に触れる曲だが、
彼は長らくこの歌を歌うことが怖かったと言っていた。

「怖かったのは、それは、いつか自分もこんなふうに、、
ボージャングルのように
なってしまうのではないか、ということだった・・・。」

歌は続く、

 ”飲ませてくれるかい、チップをくれるなら、いつでも踊ってやるよ、
ホンキートンクのピアノにあわせてさ・・“

文無しになって、スターだった頃を懐かしんで、
飲んだくれて、
ひとりぼっちになって、
逝っちまった。

ボードビリアンという表現が、
エディのことを思い出している今の自分に、
まさにぴったりなイメージを想起させた。

 「そうだ、ところでこんなカクテルはどうでしょう。」

Corpse Reviver  No2.というのを、見つけた。

日本語に直訳したら、死人も生き返る、
起死回生ドリンクとでもいうのだろうか。

今夜の話題にふさわしいタイトルの飲み物ではないか。

要は、二日酔いから復活するための、
迎え酒カクテルとでもいうような発想の飲み物ということらしい。

「このカクテルもベースがジンですから、ギムレットの後にどうです?」 


「面白い名前のカクテルですね、それでお願いします。」

まず、グラス棚から、お店が立て込まない時に使う、
骨董好きの友人バーマンから譲ってもらった
クープ型のシャンパン用グラスを取り出した。

アール・ヌーヴォーの美しい、
花のモチーフのグラスにこのカクテルを作ってみよう。

作ったことのないカクテルなので、
先に材料のお酒類を一本ずつ取り出して、
カウンターに並べていく。

ジンは先程と同様にゴードンを冷凍庫から取り出し、
あと、コアントロー、
そして冷蔵庫からキナリレというベルモット、
それから、
アブサンを酒棚から取り出して並べた。

シェイカーに、まずジンを注ぎ入れる、
グラスの4分の1くらい。
そしてキナリレを、それより少し少なめの量に加え、
コアントローはジンの3分の1ばかり、
そこへアブサンをぽつりと1、2滴落とし、
さらにレモンジュースを絞ったものを
コアントローよりは少なく、目分量で注いでいく。
氷をトングで挟んでとって、
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、
中蓋をして、トップをつけて、
シェイカーを、中身が満遍なくまざって冷えるようにふってゆく。

氷がシェイカーの中でぶつかって、
リズミカルな音のアンサンブルとなって、
サミーのボージャングルと重なる。


 “ボージャングル、踊っておくれ、
もう一度 戻って、踊って見せておくれよ、“

キリよく、トップをはずしてグラスへ注ぎだすとき、
エンディングの口笛の音に合わせるように、
アブサンの色を反映した美しいみどり色の白濁した液体が、
踊りながら花のモチーフのグラスを満たしていった。

みずみずしいオレンジをかごからとり、
オレンジ色の果皮をペテイナイフで薄くそいで、
グラスの上できゅっと絞ると、
オレンジオイルがその香りとともにぱあっとあたりに広がり、
カクテルの表面に細かくふわりと着地してゆく。

高くとんだボージャングルのステップが
ふわりと優雅に着地するように。


私も自分用にシェイカーにのこるカクテルを
別の華奢な小さめのリキュールグラスヘ注ぎ出した。

「では、私も御相伴で、」

「乾杯しましょう。」 

「そうですね、では、起死回生に。」

グラスをあげて、薄みどりいろののみものを口へ運ぶと、
まず、オレンジの香りがして、
やがてミントのような清涼な風味の印象の後すぐに、
急に深い夜の闇にすべりこんだような、
複雑なアニスとリコリスの薬草のような風味があとに続き、
蒸留酒のキックがやがてじんわりと染み透っていく。

起死回生カクテルを飲みながら、
青年ととりとめもなく会話をするうち、
いよいよ今夜の営業は、
この客ひとりで仕舞いとなる気配が濃厚となってきた。


私はかえって気楽な気分になって、
週末を終えるバーのカウンターの中から
ガラスの扉越しの通りにふと目をやって
再び考え始める。

バーテンダーというのは哀しい職業である。
というようなことを言っていたチャンドラーの一節は
どんな文脈だったかを
今一度思い出そうとしていた。

口開けのバーのボトルの整然と並ぶ酒棚の前に腰掛ける。

きれいに拭き清められたカウンター。
その日最初に調整されたギムレットに添えられた
折り目も整ったナフキン。
櫛目の整った清潔な身なりのバーテンダーの、
糊のきいたシャツのカフスから覗く
手元のすんなりとした指先が、
グラスのステムを支えて飲み物を差し出す。

まだ店内の空気も淀んでいない、
早い時間の静かなバーで、
その最初の一杯を静かに楽しむのは素敵なひとときだと、
登場人物が友人に話しているくだりだったろうか。

そこへ腰を下ろして一時を過ごすひとたちを
カウンター越しに迎える仕事、
そこで展開するストーリーを目撃する狂言回しのような、
来るひとを待ってゆくひとを見送る、
プラットフォームにぽつり立つ駅員のようなこの仕事には、
そういえばたしかに何か物哀しさがあるなと、ぼんやり考える。

Outro


前の通りを、足の悪い黒い野良猫がゆっくりと横切っていった。
二間のアパートに住んでいた時に、
エディが拾ってきたトラ猫から生まれたダークに似ている。

私たち家族と一緒に貧乏長屋へ引っ越した、
4匹の仔猫のうちの1匹。

黒くスリムな美しい猫で、
膝の上に乗せてひっくり返すと、
首の付け根と前脚の両脇に白い毛があるのが面白かった。

猫も人間同様、
個体ごとに独自の性格を備えている。

誇り高く、冒険好きな、雄の黒い猫を、
ダークと名付けたのは母だった。

長屋の部屋から外への出入りが自由だった猫たちは、
時どき遠出をして、家へ帰って来なくなる。

好奇心の強いダークも
ある時しばらく戻って来なくなったと思ったら、
ある日、前脚を一本引きずりながら帰って来た。

喧嘩をしたのか、車にでも当てられたのか。

やがて、手当ての後ダークは3本脚で器用に走り回るようになった。

二度目の遠出にダークが出かけた時は
ずいぶん長いことうちを空けたままだった。



ある朝目覚めた母が、ダークの夢を見たという。

猫は死期が近づくとその最期をひとに見せない。

猫は自分の住む家の床下へ戻って来て息を引き取るのだとか。

母が縁の下を探してみようと言う。

みなで庭に出て懐中電灯で縁の下の暗闇を照らして見ると、
果たして母の眠っていた床の下の辺りにダークが横たわっていた。

彼の遺体を母が床下から救い出して、
みなで庭の土を掘って埋めてやった。

長屋の庭は広く、新しくできたばかりでまだ開通のしていない
4車線の400m道路と呼ばれる公道に面していて、
道路より少し下がった土地には木が生い茂り、
春先には野生の蕗が一面に自生した。

その地面の下にはいろいろのものが埋められている。

死んでしまったダーク、
猫たちが狩ってきて庭先で息絶えた鳩、
水槽の上のほうにぽっかりとひっくり返って
浮かんでいた金魚など。


また私はバーの外に目をやりながら、
葦の生い茂る、
寂しい湿地の情景を思い浮かべていた。


JRが省線、と呼ばれていた時代にこの辺りには、
芸者の見習いの若い女性たちが寝起きする家や、
踊りや歌の稽古をする家が散在していたと、
何かの本で読んだことがある。


近所でバーを営むまあちゃんが、
ここのお店のカウンターの中に、
着物を着た女のひとが立っているのが見えると言っていたっけ。

彼女には、あの世の人たちが見えるのだそうだ。


この世の世界にはところどころにあちらとこちらの継ぎ目があって、
彼女にとっては時々うんざりするほど通行量の多い、
あの世のひとびとの往来に出くわすことがあると言っていた。

そしてひとはあの世に行っても、
この世にいる時と同様に成熟しないで、
迷ったまんまの人たちがいるのだと言う。

「輪廻についてどう思いますか?」

空になった御相伴の起死回生カクテルの
グラスをシンクへ片づけながら、
酒棚からシャトーブルイユのボトルを取り出す。

ステムのすらりと長いちょっと変わった形の
ブランデー用グラスをふたつ取り出して、
それぞれに注ぐと、ひとつを青年に差し出した。

「おや、ありがとうございます。良い匂いですね。」

あたりに、カルバドスの芳醇な香りが広がってゆく。

青年はグラスを手にしばらく考えると、
唐突な質問に驚くでもなく、

「まぁ、死んだ経験はないのではっきりとは言えませんが、」

自分で言った言葉に笑いながら、

「少なくとも今生では。」

と続けた。

「それはそうですね。」

私も笑いながら相槌を打った。 

「でも、いのちのサイクルが繰り返していくっていう概念は、
自然に叶っているという気がします。」 

地球上に生命が誕生してから、数十億年。 
もし全てのいのちが一回こっきりだとしたら、
あの世の人口は超過密となって、
きっとパンクしてしまう・・・・。

私は腕時計で時間を確認すると、
カウンターの中から外の看板の電源を切った。

今夜はこれで店仕舞いとしよう。

「まだ時間が大丈夫だったら、ゆっくり呑んでいてください。」

そう青年に言ってカウンターから出ると、
私は看板を仕舞いに外へ出た。

店の入り口あたりを照らしていたあかりが消え、
通りはいっそう暗くなっている。


まあちゃんの眼で今夜のこの通りを見たら、
このひと気のない通りも、
案外あの世の人たちがぞろぞろ歩いている
にぎやかな人出の通りなのかも知れない。

私はまた黙って、その通りに目を凝らしている。

百鬼夜行の絵のように、
妖怪や時代がかった装束のさまざまな人たちが、

この通りを歩いて行く様子を想像してみる。

江戸時代の夜行の絵巻にあるような妖怪たちが通りをゆく。

青鬼や赤鬼、琴や琵琶、鍋釜や調度品が変化(へんげ)した付喪神(つくもがみ)。

妖怪の「ぬっぺぼう」に「どうもこうも」がそのあとに続く。




三味線を抱えてお稽古用の着物を来た
日本髪の年若い少女たちの姿がそこへ重なり、
その足元をダークが3本脚で軽快に行ったり来たりしている。


その行列の中に、
新調したばかりの、
赤いタータンチェック柄の、
丈の長めのジャケットを着て、
山高帽をかぶったエディがいる。

今日の3丁目のグランドキャバレーのギグの後、
もうこれで漫才バンドは卒業だと、
モダンジャズバンドへの転身を周りに宣伝しながら、
意気高揚して歩いているのだ。

私は思わず呼びかける。

『エディ、』

興奮して話をしている彼が、
ふと私の声を聞きとめてこちらに振り返る。

『エディ、もう、ギグは終わってるんだよ。』


エディは立ち止まって、
不思議そうな顔をして私を見つめている。

立ち止まっている彼の周りを、
ぞろぞろと百鬼夜行の行列は進み続ける。


『もういいよ、もういいから終わりにして、次へ行かないと。』


エディは我にかえった様子で周りを見回し、そこに立ちつくしている。

その周りを、エディを透過するように、累々と行列が移動してゆく。



エディは神妙な表情になって、
黙ったままゆっくりとその目線を
行列のずっと先に向けていった。


百鬼夜行のずっと先には、
朝日の気配のような遠い遠い光があって、

その方向をエディは
額のあたりに手を添えてじっと見つめている。


やがて唐突に体の向きを変えると、
彼はゆっくりと慎重に一歩を踏み出した。


そして歩き始めたエディの足元を、
3本脚のダークが行ったり来たりしながらついてゆく。



そのひとりと、一匹の後ろ姿を見送って私はつぶやいた。



『グッドバイ、エディ。』



やがて、行列の最後を、


その、ひとりと、一匹の姿が、ゆっくりと進んでゆき、


次第に、遠い遠い光に向かって、だんだんと、その姿を消していった。





FINE.

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