在り方が先 現実が後
自分のなりたい姿、ありますか?
自己啓発やスピリチュアルなどでは、幸福になりたいのであればやりたいことをやれ。理想の自分ならばどうするか考えろ。目標を明確にしろと言われます。
しかしそもそもやりたいことが分からない。理想の自分が分からない。
もっというと、自分の望みが分からない。
いくら考えても何をしたいのかが分からない。
そういった方も多いかと思います。
私もそういったタイプで、自分の望みが分かりませんでした。
なんなら今でもよく分かっていません。
そもそも、それが分かっている人などいるのでしょうか?
強烈に惹かれる「何か」に出会えた方は幸運です。
それが自分のやりたいことである可能性が非常に高い。
では、そういったものに出会えなかった人々は、自分のやりたいこと。幸福に向かうことはできないのでしょうか?
結論から言うと、すべての方にそれは訪れます。
その形は様々で、それは芸術かもしれない。スポーツかもしれない。大工さんかもしれない。
またはいわゆる平凡といわれる日々の生活かもしれない。
その形は様々で、派手なこともあれば地味なこともあるでしょう。
問題は、それに出会わない。または気付かないことです。
生きにくさを抱えているほとんどの方が、この点に引っかっているように見受けられます。
ああ、一つだけ注意があります。
幸福な、やりがいのある、最高の人生とは必ずしも「楽な」人生というわけではありません。
言葉で説明するのは難しいのですが、自分からきつい環境に飛び込んでいくこともあります。とはいえ、本人的には実は楽です。苦労はありますが、楽です。だけど楽とは限らない。
伝わりますかね?
さあ、幸福な人生とはどういったものでしょう。
断言してしまいますが、自分の望みに従い、その望みに向かう以上の幸福などありません。
ここで引っかかるのが、やはり自分の望みが分からないという事です。
では、自分の望みにはどうしたら気付けるのでしょうか。
望みとは何なのでしょうか?
望みってなに?
ひとことで言えば、胸の奥や腹の底から湧いてくるもの。
「それ」です。
頭ではありません。胸やお腹から湧いてきます。
あたまで「考え」ても分かりません。
からだで「かんじる」しかありません。
あたまで「考えた」欲求と、からだで「感じる」欲求は全くの別物です。
客観的に見て同じように見えても、その内容と結末が大きく違います。
「お金」を例に挙げて説明しましょう。分かりやすいので。
あたまのお金
お金が欲しい。
ほしいですよね?唸るほどのお金が欲しい。
では、どうしてお金が欲しいのか説明できますか?
一般的には、お金があれば安心だから。
また、欲しいものが手に入るから。ですね。
良いものを食べて、良い服を着て、良い車に乗って、良い家に住んで、行きたいところに行けて、さらに生存を脅かされる出来事から距離を取ることができます。
なんなら愛だって手に入る。モテるので。
たとえ薄っぺらでも嘘っぱちでも愛し愛されることができます。
お金にはそれだけのパワーがあります。
お金って凄いんです。
だから、みんなお金を欲しがる。
あたまで考えるお金が欲しいとは、こんなところでしょうか。
でも、本当にそう?それは本当に「あなたの」願望なのでしょうか。
世間に植え付けられた価値観から湧き出てくるお仕着せの願望の可能性はありませんか?
もちろん、それが本当の願望の場合もあるかと思います。
そういった「体験」をしておく。それはそれで素敵な体験で、素敵な願望だと思います。豊かさの一側面であることは間違いないでしょう。
でもね、それにはキリがないのです。果てが無いのです。
満足することが無いのです。
もっともっと!もっと贅沢を!満足を!
しかしそれにも限界があります。
そしていつか飽きるでしょう。飽きはててしまうでしょう。
飽きはてると絶望してしまうかもしれません。
そうして欲望は歪み、暴走し、自分を見失っていきます。
その果てにあるのが権力欲や支配欲や選民意識。
そして戦争などに繋がっていくように思えてなりません。
さらにその果てにあるのがやはり「富」。
同じところをぐるぐると回り続けます。永遠に。
どうやらあたまの欲求に従ってもろくなことは無さそうですねえ……。
対して、からだから湧きあがる「お金が欲しい」とはどういったものでしょうか。
からだのお金
結論から言うと、「わからない」です。
肩透かしみたいですけど、これ本当です。
目的が分からない。
ただ、「お金を稼ぐ」という欲求が湧いてくるだけです。
欲求が芽生えるから、そのための行動を起こす。
達成するために行動する。そうしているうちにそのために必要な出来事のほうからやってきます。または湧いてきます。
不思議なのですが、出来事がやってきて、一生懸命にそれをこなす。
ここまできても、どうして「お金が欲しい」のか分かりません。
でも欲しい。
その理由は、それからずっと後に分かってきます。
後付けですが、からだの欲求は「必要だから」起こります。
これから先、自分のからだ。または「命」と言っても良いかもしれません。
からだや命が成すべきことを為すために、そのためにお金が必要だから、お金を稼ごうという欲求が湧いて、そのための行動を起こし、出来事がやってくる。
何を成すのか、何のためか、それは分からないまま。
分からなくていい、分かる必要はない。
どうしてお金を稼ぐのか分からない。
分からなくていい。分からないままに行動する。
それでいい。
理由なんていらないのです。
ただ、欲求が湧くからやってみた。理由はあとから分かる。
理由は常に後付けです。解釈があるだけです。
お金を稼ぎたいという事実と、そのための行動をするという事実。
その理由、解釈は無限に用意されています。
好きなように解釈すればいいし、好きなように選択したらいい。
それは自分自身にしか分からないことです。
からだはただやりたかった
結論として、やりたいことというのはただやりたいだけです。
意味などありません。あっても後付けです。
からだから湧いてくる欲求、そのすべての理由は後付けでしかありません。
では、そこに自分の意志はないのでしょうか。
極論をいうとありません。
しかしその欲求をどう活かすか、選ぶことはできます。
善用するも悪用するも自分次第。
わたしは性善説(のようなもの)を支持していますので、からだから湧いてきた欲求は善用されるものだと思っています。
本来、善も悪もないし正も誤もないので語弊がありますが、ややこしくなるので善用と言っておきます。
とにかく、やりたいことというのはただ「やりたい」ので、意味はありません。評価判断できるものではありません。
そして、特別なものでもありません。
ただ、湧いてくるものです。
それで人生が変わるものでもないし、救われるものでもありません。
でも、それでいいじゃないですか。
やりたいんだから。
やりたいと湧いてきたのだから、やってみたらいいです。
それ以上でもそれ以下でもない。意味を求めるものでもない。
ただ、やるだけです。是非やってみてください。
意味もないし、救いもないです。
しかし、命が輝くかもしれません。
待つこと 観察すること
もし、望みが湧いてきたらやってみます。
やると望んで、行動するだけです。
行動はあなたを裏打ちします。
行動だけが日常を変化させます。
なにもしなければ、なにも起こりません。
なにもない。になります。
それでもいいじゃありませんか。「なにもないがある」ので。
望みがない。があるだけです。
望みが分からない。があるだけです。
禅問答みたいですけれど、望まないことが望みである可能性だってあるわけです。それはコントロールできるものではありません。
やってくるときはやってくる。
それだけです。
もしそれが味気ないのであれば、やってくるのをひたすら待ちましょう。
日々の目の前にやってくることをひたすらこなし、徹底的に待ってみます。
そのうえで望みがやってきたならば、それを逃さずやってみます。
逃さないように観察してください。観察していないと望みに気付きません。
からだの感覚に意識を向ける習慣をつけて、逃さないように注意深く見守ります。
瞑想や運動も役に立ちます。
どちらも感覚に意識を向ける行為なので。
あたまではなく、からだに聞くとは感覚に従うということです。
満足が先 欲求は後
欲求が暴走するとロクなことにならない事はなんとなく想像がつくと思います。
先に述べた「あたま」で考えた「お金が欲しい」の例からも、なんとなくきな臭さみたいなものを感じて頂けると思います。
では、欲求を暴走させないためにどうしたらいいか。
それは、「先に満足していること」です。
満足していれば、必要以上の結果を求めずに済みます。
だって、満足しているんだから。
もしかすると、からだの欲求とは「満足に見合った欲求」しか湧いてこないのかもしれません。
なんだかそんな気がする。
いや、きっとそうだ。
※なんの裏付けもありません😂
本来、私たちのからだ、というか命は常に満足しています。
死の危険でも無いかぎり、基本的に満足しています。
異論があるかもしれませんが、それは満足を感じる力が疲れてしまっているからです。
疲れを癒していただければ、その感覚は戻ってきます。ご安心を。
不足を感じているのはからだ、命、ではなく「思考」です。
思考による「やりたいこと」は、どこかに不足が紛れ込んでいます。
その根本は寂しさかもしれません。または口惜しさかもしれません。
それが何かは分かりませんが、それらを埋めるため、というニュアンスが紛れ込んでいます。
不足を「外のなにか」で埋めることはできません。
不足している(と感じる)のは「自分のうち」だからです。
自分の中を埋めるには、自分の中を眺めるしかありません。
自分の中を眺めて、すでに満足していることに気付くことが重要です。
自分の中の満足を確認することで、満足している「からだと命」は「やりたいこと」に打ちこむことができるのです。
満足は、思考ではなく感覚です。
感覚に注意を払って、満足と共にある自分を再発見しましょう。
そうしたら、自然と望みもやってきますから、
おしまい。
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