見出し画像

生きている物語/ROCK READING「ロビン」に寄せて

開幕前に演者の本髙くんと今野くんがこれは強制ではないし良かったら、と前置きした上で「シャーウッドの森の一員として何か緑色のものを身に着けてきてほしい」と言っていたが、特に何も持たずに観劇した。たとえ舞台から客席に至るまでの全てが12世紀のイングランドとして一体化しようとも、私は2021年10月の座標から傍観するつもりだった。

ロビン・フッドは天真爛漫で、向こう見ずで、浅慮だった。自分が一番大切なものに忠実であろうとして死んだ。伝承通りの人物かは分からない。これが私が初めて触れたロビン・フッドの物語だからである。
最後に、死んだロビンが彼の最期を看取った盟友リトル・ジョンと共に冒頭の口上をもう一度繰り返す。それはもはやロビンとジョンの言葉ではなく、語り部としての幕引きの台詞である。観客をシャーウッドの森の一員として迎えると言っておきながら、「これはやはり遠い昔の出来事であり書き換えることのできない物語である」と突き放すのか、とその時は思った。

演出の鈴木勝秀氏は前回のROCK READING「幸福王子」の公演後に「ROCK READINGは音楽ライブとして作った。どうか文学として噛み砕くのではなく、音楽として呑み込んで欲しい」(意訳)と語っていた。私を含めた多くのファンが幸福王子に込められたメッセージの解釈に勤しんでいた中で、その言葉は非常に堪えた。

だから今回のロビンは氏の言う通り音楽を楽しむことに重きを置いた。実際、とても楽しかった。特に「聖者の行進」をみんなで演奏しながら歌うところは心が沸き立つ感覚を久しぶりに味わうことができた。
しかし、一方でどうにも釈然としなかった。幕の向こう側に置いたままのロビン・フッドの物語をどうすればいいかわからなかったからだ。

昔、こんな話を読んだことがある。
ある学者が、先住民族に伝わる神話の調査をしていた。彼らは話をする代わりに学者のことを聞きたがったので、学者は持っている知識を分け与えた。しばらくして再度その地を訪れたとき、かつて学者が教えた話が神話に組み込まれていた……というものである。ある一定の時期で分断され、固定されるのではなく、今もなお変化し続けるのが神話や伝説といった口伝の物語なのだ、という趣旨だった。観劇後、その話を思い出した。

幸福な王子はオスカー・ワイルドというアイルランドの作家が一人で書き上げた童話フェアリーテイルだが、ロビン・フッドは中世イングランドの吟遊詩人が民衆に語り継いできた伝承フォークロアである。近代に入ってからも小説や映画など、多くの人の手によって新しい解釈のロビン・フッドが生み出されており、その最果てにROCK READING「ロビン」はあった。
確かに「遠い昔の出来事」ではあっても、「書き換えることのできない物語」ではなかったのだ。
先述の通り私はこの舞台で初めてロビン・フッドの物語に触れた。つまりこれは私が中世イングランドの吟遊詩人からROCK READINGの手を介して受け取った、私が語り継ぐべき21世紀の伝承なのだ。

何のことはない。いくら傍観を決め込もうが、初めから当事者だったのである。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?