【HEAR公式シナリオ】結婚【柚坂明都(ふぁいん)】
ひあひあ~!
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シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:HEAR公式シナリオ https://note.com/hear/n/n6ec8f2c30e77
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・複数人向けのシナリオを1人で読んでも構いません。
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『結婚』本文
土曜日の昼下がり。
私は分厚い本を広げてみているが、しかし、先ほどから一ページたりとも進む気配がない。
読みたかった本ではある。有名な学者が書いたというベストセラーだから、取引先との会話の種にはもってこいだろう。少々難解な表現はあるが、しかし、自分であれば問題なく理解できるレベルであると自負してもいる。
だが、少しも読む気にはなれなかった。
周りに人の気配がないことを確認して、私は本から顔を上げる。
私のいるリビングは、そこそこの広さを誇っている。さすがにもう何十年も経ってしまっているから、壁や床には傷もあるが、それにしたって上等なリビングだと思う。
家具だって上質なものを揃えているし、壁には数百万はした絵画だって飾ってある。若い頃に理想としていた、充分すぎる生活のはずだ。
だが、不思議と今の私には、どれもが空虚に思えた。こうなってしまったのはいつからだろう、と思う。いつから私は、週末が苦痛になったのだろうか。
私はそっと椅子を立ち、部屋の隅、窓際へと向かった。春らしい陽射しが差し込む特等席で、猫が心地よさそうに丸くなっている。そこに、なるべく音を立てないように近づいて手を近づけると――猫は、今まで眠っていたのが嘘のように、素晴らしい俊敏性で私のもとから去って行った。
「撫でるくらいいいじゃないか」
私は思わず呟いていた。声に出すことで、少しはこの虚しさが軽くなればと思ったのだが、吐き出した虚しさは誰にも受け止められずに、そのまま私の耳へと戻ってきた。心なしか、吐き出す前より重くなった気がする。
うららかな春の陽射し、とはいえ、窓辺は、五十も後半を迎えた親父の居場所ではなかったので、仕方なく私は椅子へと戻った。逆に、もう少し年を重ねれば、窓際どころか縁側が似合うようになるのだろうか、などと妙な思考に襲われた。その際はぜひ、ひざに猫を乗せようと決意する。
再び本の前へと戻ると、ふと私の耳に、階段を降りてくる音が聞こえてきた。
私はあわてて本を手に取る。大丈夫、文字は正常の向きだ。逆向きに持ってしまうなどという、子どもの頃に読んだ漫画のようなミスはしていない。
リビングの扉を開けて入ってきたのは、今年成人したばかりの娘だった。本を読むふりをしながら目で追うが、娘は一直線に冷蔵庫へと向かった。飲み物を取り出し、コップに注ぐ。そのまま流れるように飲み干すと、再び飲み物をしまって、さっさとリビングを出て行った。
「ドアをきちんと閉めなさい」
思わずそう声を出すと、足音が止まる音がして、少し間を置いてから、がちゃん! と強い音がして扉が閉められた。
私は息をつく。そんなつもりはなかったのに、思わず少し大きな声を出してしまった。疎まれただろうか。きっとそうだろう。あの扉の音こそがその答えだ。
私だって本音を言えば、そんな注意などしたくはなかった。しかし、他に何を言えば良いのか、少しも思いつかなかったのも事実だ。結局娘は、こちらに一瞥もくれることはなかった。私のことなど眼中にない? いや、本を読んでいる空気を察して、邪魔しないようにしてくれたのだろう。そうに違いない。
娘が二階に戻ったのを感じて、私は再び本から目を離した。私の知る限り、家にいるとき、娘はほとんどいつも、自室にこもっていた。今日は出かけているが、妻も家事をしているとき以外、大体二階にいる。時折、妻と娘の話し声がかすかに聞こえたりはする。あのふたりは、普通に会話しているようだ。
私はついに本を閉じた。近頃、週末はいつもそうだ。こんなことなら仕事をしていたい。職場なら、休む暇がないくらい、色々なところから声をかけられ、頼られているというのに。自宅での地位は一番低いのだ。
間もなく定年だが、リタイア後、私はどうなってしまうのだろう。考え始めると、どうしようもなく逃げたくなって、私は目を閉じた。
「はい、これにて終了です。お疲れ様でした」
――目を開けたとき、私は自分がカプセルの中にいることを思い出した。
「いかがでしたか。当社自慢のシミュレーションシステムは」
スーツの男がにこやかにそう話しかけてくるが、それどころではない。自分の腕を眺め、身体を触る。
手にしわはないし、だらしなかったお腹も引っ込んでいた。
「今回のマッチングは、いかがいたしますか?」
現状を確認した私、いや俺は、喜びに顔を震わせながら、笑顔で即答した。
「キャンセルでお願いします! この相談所も辞めます!」
そうして、スキップしながら帰路につくのだった。己の身の軽さに心を躍らせながら。
――残された男は、首をかしげる。
「どうもなあ……このマシンを導入してから、婚姻成功率が下がっている気がするなあ。どのお客様も、とても嬉しそうではあるんだが……」
その呟きに、マシンを操作していた白衣の男は苦笑して答えるのだった。
「だから言ったでしょう。結婚前に婚姻生活をリアルにシミュレーションできるマシンなんて、作らないほうがいいって」