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AI vs [ satori ]

まだ誰も手をつけていない AIビジネス

はじめに

この文章は論文や評論、ましてや小説ではない。

あるビジネスの提案書だ。

私は、研究者でもなければ評論家や小説家ではない。

市井のフィイルムメーカーである。

だから、これは映像を利用したビジネスの企画書であり、いま世界が取り組むべき AIについてのテーマを扱った映像作品と、そこから派生する(おそらくビッグ)ビジネスについての提案書である。

短くはない文章を読んでいただく前に、あなたの時短のために全体の俯瞰図を先に示すと以下のようになる。

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さらに主張の確信部分(上記のSeaon2〜Season3)の主張のポイントを図示すると以下のようになる。

スライド1

 このストーリーはまず、現在はまだ単細胞である AIを汎用 AI(AGI)に進化させる取り組みについて覗いてみる所から始まる。

いくつか方法があるので、私が調べた範囲でそれを紹介する。

次の展開として 汎用的な能力を身につけたAGIに倫理観を学習させる必要性(急務)と同時に、その難しさについてが紹介する。

AGIに倫理感を持たせる事が現在AGI開発者の間で、最大の難問かつ急務の一つとされていることをご理解いただきたい。

そして最後の章が、本企画のメインコンセプトでありビジネスの根幹となるパートだ。

それは、現代の優秀な AI学者にとっても、出口が見つからないように思える「AGIに倫理観を持たせる」という課題に対する一つの有力なソリューションとなるはずだ。

それが、AIに「倫理」を教えるのではなく、ブッダの「悟り」を学習させることである。

宗教色を除いたブッダの「悟り」について紹介しするので、それが本当にソリューションとなり得るのか?について、他宗教の方々も(あなたの神とともに)ご一緒に考えていただきたい。

お気づきだと思うが、これは間違いなく人類が間も無く直面する大きな課題に対する一つの解決策について追求するドキュメンタリー動画の企画だ。

また同時にこの企画は動画だけに留まらない。

あなたが優秀なビジネスマンだとしたら、この動画の先に、「悟り」の学習に特化したAIと「悟り」を得た人間の対戦イベントについて想像するのは容易だと思う。

チェスや将棋よりもはるかに難しい「悟り」に挑戦する AI構築企業はIBM 以外でも存在するのではないかと思われる。(個人的にはGoogleに出資してほしい)

以上が本企画「人類最大の課題とその解決策を追いかけるドキュメンタリー映像と AIと人類の世紀の対戦イベント」がこのビジネスの根幹である。

そんな映像を私は個人的な興味からも観てみたいと思うのだが、同時に人類のためにも作らなければならないと思っている。

もしまだあなたがご興味をそそられないでいるとしたら、この動画のプロデューサーになったつもりで以下のように考えてみていただきたい。

イーロン・マスクであろうと世界最先端を走る AI研究者だろうと、望む人には誰であろうと会ってインタビューができる。

人類共通の倫理観について追求するために、各国の代表に直接会って話を聞くことができる。

 AIの進化を象徴的に描くためにフィクションの動画を挿入してもいいだろう。

ナビゲーターはキア・ヌリーブスをおいて他にないだろう。

挿入歌は「映画ドント・ルック・アップ」で地球滅亡を目の前にしながらラブソングを歌い上げるバカップルを演じていたアリアナ・グランデに今度はシリアスに歌ったいただこう。

マイケル・ムーアなど才能溢れるドキュメンタリー監督もいいが、新しい手法でテーマに迫れる才能ある若手ディレクターでもよいだろう、、、などだ。

私は、多くの人の興味を惹きつけ、かつ意義深い作品になると信じているのだが、ただし、それは本当に上記のような自由な規模でのドキュメンタリー映像を制作することができるのであればだ。

つまり十分な制作費があればだ。

少ない制作費で、最先端のキーマンには会えない、スタッフも一流を選べない、という状態で制作してはいけないのだと思う。

世界規模での公開が前提となるので、億単位の制作費も十分にペイするはずだ。

損益予測もついていないこの「企画書」は、この損益計算ができていないという点で大きな弱点を持つが、そこはこの企画に出資する映像配信会社のほうで計算できるのではないだろうか。

予算規模で実行可能か不可能かが決まるが、一億円ではとても足りない。

いずれにしろ、、中途半場では面白くならない。面白くなければ見てもらえない。見てもらえなければ作る意義もない。

何卒ご検討のほどお願い申し上げます。


まえがき

2022年 3月現在、プーチンという偏執狂の人間が犯す強盗行為を世界は止められないでいる。

 AI自身の判断で人を殺傷する「自律型致死兵器システム(LAWS: Lethal Autonomous Weapons Systems)」の使用禁止について世界は話し合いを続けているが、2021年末にその使用禁止に反対したのはアメリカやロシアなのだ。

このウクライナに対するロシアの犯罪行為の中でLAWSが使われているということではないが、今後ますます戦術面で AI利用が進めば、いつかはLAWSが誕生し使用される局面が来てしまうだろう。

彼らがどうしても LAWSの開発を諦めないというのならば、「倫理観」を持ちながら LAWSに対抗できる AIというものを考えておかないといけないのではないだろうか?

以下に、もはや絶望的にしか見えない人類の未来を、少しでも明るい方向に導く手がかりになると思われる「方法」のアイデア・コンセプトを記した。

ただの妄想と切り捨てずに、寛容で、できれば謙虚な目で読んでいただければ幸いだ。

Season 1
序 章  AIは単細胞


現状すべての AI は単細胞である。

「チェスで名人を打ち負かしたIBMの AI ディープブルー も三目並べでは4歳児にも勝てない」(マックス・テグマーク著『Life 3.0』)ほど、現在の AIは各ジャンルに特化した「単細胞」であるということは周知の事実だ。

しかし、2045年とされる「シンギュラリティ」と言うバズワードのせいで、既にAIが人間の知性に迫るような汎用的な能力を持っているかのように誤解している方は多いように思う。

この「シンギュラリティ」の真偽についても議論は分かれているし、そもそもこの理論を提唱したレイ・カーツワイル博士の信頼性を問う声も上がっているにも関わらずである。

では、単細胞ではない AIがうまれる可能性はどれだけあるのだろうか

「シンギュラリティ」は単なる妄想なのだろうか?

AGIの完成はいつか

カーツワイル博士とは逆に、AGIは今後何百年も実現しないと考える研究者は多いらしい。

AGIというのは Artificial General Interigenceつまり現状の AIような「単細胞」ではない、人間と同じように様々な思考やタスクに柔軟に対応できるいわゆる「汎用 AI」のことだ。

元中国版グーグル、バイドゥの主任研究者であるアンドリュー・エンは「 (AGIによる殺人)ロボットの出現を怖がるのは、火星が人口過密になるのを心配する様なものだ」と言って、 AIからAGIがうまれるのは遠い未来の話であると言い切っている。

どうやら専門家からも、汎用 AIの誕生は(少なくとも近未来には)疑問視されているらしい。

しかし一方、今この時も、汎用 AIの研究は多くの科学者や企業によって進められている

カーツワイル博士以外にも、シンギュラリティを近未来の事と信じる研究者も多い。

つまり、正確な AIの未来は誰にも見えていないという事だ。

人類の未来の鍵を握る AGIの開発が、到達地点も曖昧なまま止まらない競争に突入してしまっていることに危機感を覚えるのは、私だけでないはずだ。

第1章 AGIに至る道

 AI研究者が登る道

AGIを開発するのに当たって、地球上で一番賢い生物だと自惚れている人間自身がAIの「目標」として設定される。

確かに、人間をお手本にする術がAGIに至る唯一の道ではないかもしれないが、アメーバをお手本にするよりは早く到達しそうだ。

人間の脳を目標としたAGIの開発について見てみると、現在大きく二つの方法が試されているようだ

「全脳エミュレーション」と「全脳アーキテクチャー」である。

脳の全機能をAIで再現させようとするのが「全脳エミュレーション」であり、脳の各器官をモジュールとして分割しその機能を AIに機械学習させた上で、再度モジュールを統合しようと考えるのが「全脳アーキテクチャー」である。

そう聞いただけで完全に内容が腑に落ちる人は少ないかもしれないが、直感的に「道のりは長い」と感じる人は多いだろう。

イーロン ・マスク が登る別の道

「全脳エミュレーション」「全脳アーキテクト」のほかに、もう一つ、あのイーロン・マスク が率いる「ニューラリンク」社が進めている、(マスク本人はそう言っていないが)「全脳トレース」とも呼べる方法がある。

2021年4月に同社は、ポンというテレビゲームのカーソルを「念力」で動かして遊ぶことができる猿をうみだし、YouTubeで公開した。

動画の中で、猿は全く手を使わずに脳からの信号だけで、まるで念力のようにモニター上のカーソルを動かしている。

彼らは、猿の脳に直接チップを埋め込み、脳波(カーソルを動かすという意思が生まれた時に発火するニューロン情報を正確に特定し)と実際の運動(カーソルの動き)を連動させることで、「考えただけで」画面上のカーソルを動かすことができる「念力猿」を作り出したのだ。

彼らがそのシステムの到達地点を「全脳トレース」と呼ばず、「ブレーンマシーンインターフェイス」と呼ぶのは、あくまで脳とマシンを直結するインターフェイスを作るのが目的であり、脳の働き全てをトレースすることを目指しているわけではないからだ。

しかし、このシステムがさらに高度なレベルで完成すれば、必然的に、脳に直結したマシン(AI)が全脳の活動をトレースしてデジタルデータ化しその働きを理解するようになることは疑いようもない。

全脳をトレースして、人間の脳の活動の全てを学んだ AIはAGIと呼べる存在になるのではないだろうか?

  AGIを作るという山頂を目指すにあたり、AIに人間の脳の汎用性を学習させるべく、人間の脳の全情報を AIで再現しようと考える前の2つの方法に比べて、まずは人間の脳と AIを直結してしまって、人間の脳の動きをダイレクトに学習させてしまったほうが(これも直感的に)「早い」と多くの人が感じるだろう。

現在は「身体に障害のある方が、脳の電気信号だけで、義手や義足などを動かす事ができるようになる」という医療的な意義をあげて、ブレーンマシーンインターフェイスを開発しているイーロン・マスク だが、実は彼の狙いはそのもっと先にある。

イーロン ・マスク が目指す到達地点

 彼が目指している山頂。それは(彼も名言する通り)「AIと人間の融合」である。

こう書くと、なんだか SFチックで、しかし逆にどこか前時代で滑稽にさえ聞こえるかもしれないが、先に述べた猿がすでに存在するように、現実はかなりのスピードで開発が進められている。

実は、日本の東京大学でも AIと脳を繋いで「脳を改造」する研究は既に始まっている。

では、マスク氏は「人間とマシンを融合させた AI」で何をしようというのだろうか?

その前に、そもそも彼にとって AIとは何なのか?

以下は彼の言葉だ。

   「AIは【人類文明の存続を根底から脅かすリスク】である

故ホーキング博士も「AIは人類にとって最悪、もしくは最良の結果をもたらす可能性がある」と語ってその危機を訴えていた研究者の一人だが、マスク氏は博士らと共に、 AIの安全な研究を推進するための非営利団体FLI( Future of Life Institute )の設立に協力していることからもわかるように、その危機感は口先だけのものではない。

そんな彼のAGI開発目標は【人類文明の存続を根底から脅かすリスク】を持つAGIを使って世界制覇することではなく、そのリスクを回避することだ(と信じたい)。

イーロン ・マスク だけだろうか?

一方世界には、マスクのように YouTubeで公開したりしないまま、同様の研究を進めている研究者たちは「あの国」にも必ずいるはずだ。

そして「あの国」では、動物実験から人間への適用までの決断が西欧諸国よりも早く、かつ侵襲的(埋め込みを含めて生体を傷つける方法)な実験に対する躊躇が少ない、と考えるほうが現実的だろう。

(何事にも慎重で臆病な日本には、敵わないだろうことは言うまでもない)

方法論は分かっている、方向性も分かっている、後は人間への適用だとなった時には、必ずその国はスピードで他の国を凌ぐ

さてそれでは、彼らは、 AGIの暴走の危機を回避するためにその能力を使ってくれるだろうか?

それとも、彼らの優位性を世界に示すために、その技術を使うだろうか?

もしくは、その技術がテロリストの手に渡ったら?

これは、つまり、もう始まっている戦争であり、現実に存在する危機なのだ。

 Season 2

第2章 AGIの倫理

AGIに倫理観を持たせる試み

「将来自らの知能を世界の悪い事ではなく良い事に使うために、子供に道徳を教えるように、 AIにも同様にするべきだ」とMIT教授のマックス・テグマークは主張している。

彼は、上記の故ホーキング博士とイーロン・マスクが加盟するAGIの研究団体 FLI(Future of Life Institute)の発起人だ。

彼の想定では、AGIの誕生はそれほど遠い将来ではないようで、以下のような警鐘を発している。

「AGIを作るのならまず、AGIが人間の目標を理解し、それを受け入れ、どんなに賢くなってもその目標を持ち続けるようにするにはどうすれば良いか考え出さなければいけません。その3つは非常に難しい技術課題なので、時間切れになる前に多くの最も優秀な人々に答えを導き出してもらわなくてはならないと思います」

3つの技術課題の中で最も難しいのが、最初の課題だろうことは AI研究者でなくても分かる。

全人類に共通する「人間の目標」が何かを決めるという、人間の側の難しい問題を含むからだ。

 そもそもAIが理解するべき「人間の目標」とはなんだろう?

人間の倫理を AIに学習させるべきだと主張するテグマーク博士は、こう言いたかったのではないでしょうか?

AGIを作るのならまず、AGIが【人類共通倫理】を理解し、それを受け入れ、どんなに賢くなってもその【人類共通倫理】を持ち続けるようにするにはどうすれば良いか考え出さなければいけません」

『ロボットに倫理を教えるーモラルマシーン』の著者である倫理学者のウェンデル・ウォラックは「機械道徳」という概念を唱え、自律的に道徳判断を下すソフトウェアの研究開発をしている。

ウォラックは「私たちは今後数年の間にも、自律したコンピューターシステムが意思決定を下すことによって、甚大な社会的被害が起こるのではないかと予測しています」として「ですから安全性と社会的利益を両立させるために AI自身が道徳的判断を下せることが求められるようになると」考えているという。

我々の感覚からすると数年のうちに問題が起こるというのはにわかに信じ難いが、最前線の研究者から見ると事態はそこまで逼迫しているということだろうか。

だとすると、一刻も早くAIに倫理を教えて、「最も優秀な人々に」自律的に道徳的判断を下せる AIを作って頂かなければならない。

ではいったい、誰のどんな視点に基づく倫理観を教えればいいのだろうか

すでに始まっている危機

もちろん多様性は尊重しながらも【人類共通倫理】の確立はどうしても必要なのだが、道のりは長く険しく遅々として進まない。

それでも、 倫理的な規制についての答えが見つかるまでAIの研究を保留にする、というわけにはいかない。流れはもう絶対に止まらない。

もし我々が倫理的規制がないことを理由に開発を止めなどしたら、異なる倫理観を持った人たちに致命的な遅れを取るだけだ。

ゴールの見えない競争はもうすでに始まり、さらに加速している。

テグマーク氏が「時間切れ」という言葉を選ぶ気持ちも納得がいく。

単細胞であるとは言え、それぞれの分野では我々人間よりも賢い AIなのだ。いつかそれらがネットワークされた時には一気にAGI化が進むだろう。

予想しているよりも早く人間を凌ぐAGIが生まれる可能性があり、状況を冷静に考えれば、そのAGIが誕生した時に持っている倫理観(持っているとして)が【人類共通倫理】でない可能性はかなり高い

 他の様々な分野と同様、いや何にも増して国と国の戦い(人々の運命)は AIの性能によって左右される時代が来てしまったのだ。

戦争における AIのシミュレーションの最終目的は争いに勝利することでしかなく、そこにいる人間の幸せはもちろん、命でさえもただの数字として扱われているだろう。

その AIに我々人類はどの程度「自律性」を与えるのだろうか?このまま行けば戦略はともかく戦術レベルでは多くの判断を AIに任せる可能性はないだろうか?

果たして我々人類は、AGIの倫理問題についての答えを見いだせるのだろうか

その前に、人類の手で【人類共通倫理】を作るという課題を我々はパスできるのだろうか

全人類に課されたこの課題の解答期限は「ここ数年のうちに」「時間切れ」になるかもしれないのに、未だ誰一人として答えを提出できていないどころか、チカラによる現状変更という明らかに間違った行為を世界に向かって正しいと言い切る輩までが登場している現在、決して見通しは明るいとは言えない

そもそも道徳とは?倫理とは?

AGIの倫理について話を進める前に言葉の定義を明確にしておきたい。

というのも、「倫理と道徳」について調べる中で、二つの言葉の定義の違いが明確ではない記述が多いことに気づいたからだ。はたしてAGIに必要なのは「倫理」なのだろうか「道徳」だろうか?

広辞苑では、「倫理」とは【人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳】とあり「道徳」は【人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理】
とある。

「倫理」=「道徳』だが「道徳」≠「倫理」ということだろうか。広辞苑からしてこうだ。どうも釈然としない。

書籍も含めていろいろ調べた中でもっとも分かりやすかったのが次の説明だ。

「道徳」とは「must しなければならない事」であり「倫理」は「 should なすべき事」であるというものだ。
こちらがその説明サイト。カジュアルなサイトなのに、どんな学者の説明よりも分かりやすくかつ的を射ていると感じた)

どうやら「倫理」と「道徳」の違いについては、哲学者の間でも考え方の違いがあるらしいので、今後の話の展開のためにひとまず本文中に於いては、「道徳」とは「must しなければならない事/してはならない事」の内的外的規範であり「倫理」は「should なすべき事 /なすべきではない事」の主に内的な規範であるとさせていただきたい。

「トロッコ問題」における倫理と道徳

その上で、有名な「トロッコ問題」を例に「倫理」と「道徳」の違いについてもう少し明確にしておきたい

あくまでAGIの持つべき倫理観・道徳観について検討するためなので、もうしばらくお付き合い願いたい。

「トロッコ問題」とは、暴走するトロッコの行く先に5人の線路作業員がおり、このまま行けば5人の命はないが、あなたの目の前にある分岐機を使って1人の作業員がいる方に線路を切り替えれば5人の命が救われるとしたら、あなたはその分岐機を操作するだろうか?という思考実験の問題だ。

当然、あなたが分岐機を操作することで1人の命は失われることになる。

では、分岐機を操作する行為は「道徳的」行為だろうか「倫理的」に見てどうだろうか

もし分岐機を操作しなければ5人が死ぬことになるが、それはあくまで「事故」である。しかし、操作をした途端にそれはあなたによる殺人「事件」になる。

となると分岐機の切り替えは殺人であり、してはならない行為ゆえに「道徳」的に正しくない行為ということになるだろう。

しかし、その殺人は同時に5人の命を救う行為でもあり、その視点からは正しい行為であると考える人は多いと思う。

実際に世界中で調査をした結果では、多くの人が分岐機を切り替えると答えている。

つまり(事故よりも殺人事件を起こしたかったという変態を除いても)多くの人が「したほうが良いこと」と考えたという意味で、それは「倫理」に沿った行為だと言える。

おそらくリアルな社会においても、あなたが殺人罪に問われることはないだろう。殺人という(法と)「道徳」には反する行為なのに、「倫理」的には正しい行為として判決が下されるということだ。

以上の例からもわかるように、「道徳」はルールであるから(例えば「殺人をおかしてはいけない」など)あらかじめ成文化しておけばAIは「学習」し遵守することができるが、「倫理」は事前に成文化することがそもそも困難であり(事態に直面した時に、人としてどうしたほうが良いかという判断がなされるという意味で)AIに学習させることが難しいということになる。

ここでちょっと想像してみてほしい。もしあなたが実際に分岐機を操作して1人の人間を殺したとしたら、たとえ殺人罪に問われなかったとしても、「良心の呵責」のようなものを感じないだろうか

その時の気持ちは「法」と「道徳」を守らなかったことを許されたとしてもなお、死んでしまった1人の人間の命を思い「人としてするべきではない」事をしたという「倫理」的な自責の念のほうが強いのではないだろうか?

「良心の呵責」の発生源には「他者を思いやる気持ち」があり、それは「倫理」のうまれる土壌のひとつ(というより全て)になっているのでないだろうか?

「道徳」はもちろん「倫理」も、人種や地域、宗教やイデオロギーによってそのアウトプットには差があるかもしれないが、その根本には人として共通の守るべきの道があり、それは他者を思いやる気持ちからくるものに違いない

その「倫理」の源にある「他者を思いやる気持ち」こそAGIと共有したいし、しなければならない大切な心のパートなのだが、そのような思考や感情を一切持たないのが AIなのである。

つまり、もっともAIに「学習」させるべきでありながら、それがもっとも困難なのが「倫理(観)」という事になる。

AGIに倫理観を持たせるのは無理

倫理的判断というのは、基本的に人間の共感によって支えられている。身体をもたない AIに共感能力など求めるの無理だ、というのが常識ではないか

「 AI倫理」(2019 中公新書ラクレ)の中で西垣通と河島茂生は、AGIが「倫理観」を持つのは不可能だと繰り返し主張している。

では「倫理」はともかく「道徳」であれば成文化してAGIに「学習」させることができるだろうか。

しかし、その場合にもっとも難しいのはまさにその成文化だ。「道徳」こそ、国や地域、民族、宗教やイデオロギーなどによって違ってくる

【全人類共通道徳】はその作成が至難の技であり、それこそ AIのチカラをお借りしたほうが良いくらい難しい問題だ。

そもそも【全人類共通】の「道徳」など創造しえないのならば、いっそ多様な「道徳」を持ったAGIが存在する未来を志向するほうが、多様性のためにも一見公平に見えるが、そうだろうか?

我々と異なる「道徳」を持つことが明らかになっている国の指導者や、異なる宗教を持つ相手の折伏(宗教的降伏)にAGIを利用したいと考える宗教指導者、AGIを強力な兵器だと考える独裁者などの「倫理観」に基づくAGIの利用は、倫理観の異なる我々にとって大きな脅威になるのではないか?

彼らの倫理観を変える事ができない以上、我々にとって正しいと思われる「道徳」を「彼らの」AGIに持たせる事は決してできない。

彼らは我々の危機であり、我々も彼らの危機なのだ。

時間的余裕

ここで朗報がある。

西垣・池島両氏は「 AI倫理」の中でAGIの誕生自体に疑義を呈し、カーツワイル氏らの言うシンギュラリティやトランス・ヒューマニズムなどは単なる素人向けのSFの話だと切って捨てているのだ。

まだ時間はあるということか?(もしくはAGIは永遠に誕生しない?)

テグマークやホーキング博士、イーロン・マスクたちが参加する FLIは、単なる心配性の研究者の集団なのだろうか?

西垣氏が AIはどこまで行っても自律性を持たない他律系であることを根拠に「 AIに自由意志だの責任だのを帰すのは全くの誤りに他ならない」としている。

しかし、「 AI倫理」が出版された2019年にはまだ、脳とコンピュータを直結したなど猿は存在していなかったはずだ。西垣らは現在イーロン・マスク の猿のことをご存知なのだろうか?是非今のご意見を伺ってみたいと思う。

ここでカーツワイルのシンギュラリティを彼自身の言葉によって見てみよう。

特異点とは、われわれの生物としての思考と存在が、みずからの作り出したテクノロジーと融合する臨界点であり、その世界は、依然として人間的ではあっても生物としての基盤を超越している。特異点以後の世界では、人間と機械、物理的な現実とヴァーチャル・リアリティとの間では区別が存在しない

カーツワイルもこの時まだ、マスクの猿については知らなかっただろうが、彼はすでにそれを、さらにその先を予見していたといえるのではないだろうか?

西垣らの著書「 AI倫理」ではこのカーツワイルの記述に対して「神が観察しているのだと考えれば、たしかに両者を区別する境界線など消滅してしまうだろう」として、それをあくまで抽象的な話だと捉えて評論しているのだが、果たしてその解釈は正しいだろうか?

「融合する臨界点」を、マスクが進める「マンマシンインターフェイス」の完成と捉えて読み直すと、少なくとも私には、カーツワイルの主張のほうが恐ろしいほどのリアリティを持って見える。

喜ばせておいて申し訳ないが、本当にまだ猶予はあるのだろうか?

私も西垣たちよりも、「心配性の集団」のほうに共感を覚えるのだが、あなたはどうだろう?

Season 3 

第3章 答えは「悟り」に?

どこでのないところからの眺め

ここで、突拍子もないことを言い出すようだが、私は【人類共通道徳】【人類共通倫理】を構築するための鍵はブッダの「悟り」にあると考えている。

仏教徒の我田引水、単なる思い付きと思われるかもしれないが、どうやらそう考えるのは私だけではないようだ。

進化心理学を専門とする科学ジャーナリスト、ロバート・ライトも同様な考えを持つ多くのうちの一人だ。

彼は、哲学者トマス・ネーゲルがその著書『どこでもないところからの眺め』で問うている「まったくなんのバイアスもなしに自分の利益に関係する道徳問題に対処できるほど完璧な客観性などというものが存在するだろうか」という問いに対する答えとして次のように書いている。

「これほどの道徳的客観性は、悟りに至ることがもたらす重要な (最も重要な、という人もいる) 結果の一つだ」

「いずれにしろ、『どこでもないところからの眺め』は、悟りがどのようなものかを説明する最も簡潔な表現かもしれない。」

ここでネーゲルおよびライトがいう「道徳」とは、当文中で先に定義した「道徳」と「倫理」の両方を広く包含した概念であると考えて差し支えはないだろう。

ライトの言う事が正しいとするならば「悟り」によって得られる『どこでもないところからの眺め』は【人類共通道徳】や【人類共通倫理】の答えではないものの、少なくともその構築に向けたひとつのスタート地点になるかもしれない。

「どこでもないところからの眺め、かたよりのない眺めを、無関心な眺めと混同してはならない。どこでもないとこからの眺めには、人類全体の幸福に対する配慮(中略)がともないうるし(中略)だれの幸福もほかの誰かの幸福より重要ということはない」とライトは主張する。

【人類共通道徳】=仏教倫理ではない

ここで我々が混同してはならない事がもうひとつある。道徳的客観性を得た「悟り」の視座から見える「道徳」=「仏教の戒律」ではないということだ。

例えば仏教の戒律には「不飲酒戒」がある。これは、私がとても遵守できないというだけではなく、おそらくイエス・キリストにも、最後の晩餐が葡萄ジュースでなければいけないとなるとご賛同いただけるとは思えない。

あくまで「仏教の戒律」と客観的道徳は分けて考える必要がありそうだ。

しかしこれは仏教の戒律に限った話ではない。

【人類共通倫理・道徳】の創造の前では全ての宗教の戒律は一旦全てご破算に願った上での検討でなければならない。

だからと言って、それぞれの宗教に対して個々人が抱く信心を捨てる必要はない。

これは宗教ではなく、あくまで人間の視座の話である。

その視座をより多くの人類が共有することこそが、【人類共通倫理】スタートラインなのではないか。

ライトの預言

ライトの著書を改めて見てみると、「悟り」=「どこからでもない眺め」=「道徳的客観性」であるとする彼も、実は「悟り」を得ているわけではないようだ。

瞑想を通してその近景に触れたのかもしれないが体得してはいない「悟り」について、何故ライトはここまで自信を持って主張できるのか?

本人も言う通り伝統的仏教徒ではない(西洋仏教徒である)彼にとって、その確信はどこから来るのだろうか?

大乗仏教には菩薩という概念がある。

観音菩薩・地蔵菩薩などから菩薩を「仏様」だと思っている人も多いと思うが、菩薩とは「ボディサットバ」の音写(菩提薩埵ぼだいさった)の短縮系であって、悟りを目指す求道者を意味する。

つまり「仏様」といういよりも「人間」に近い存在なのだ。

菩薩という言葉が表しているのは、「悟り」のために歩む道は誰にでも進むことが可能で、その最終目的地である「悟り」の世界観も教えや経典を通して誰でもが(ある程度は)理解可能ということなのである。

卑近な例で申し訳ないが、例えばパリに行ったことがない人でも、ガイドブックを読んだり実際に行った経験のある人の話を聞く事によって、実際にパリに入る前から、どうやったらそこに至るのか、そこがどんな処であるのかという事も(ある程度は)理解できているのと同様かもしれない。

ライトという菩薩は「NYタイムズ」や「タイム」に記事を書く科学ジャーナリストとしての客観的視点を持ったまま多くの仏教経典を「悟り」のガイドブックのように読みこなした上で、瞑想のマスターの導きと自らの実践を通して到達地点である「悟り」の光明を間近で見たという体験を通して、「悟り」の世界観を(ある程度)理解したのだ。

その体験こそが彼の主張を根底から支えているものだ。

この場合、(ある程度)とは「悟り」一歩手前を意味する。

一歩先にある「悟り」の瞬間が訪れない限り完全な理解はない以上、残念ながら(ある程度)であることは免れない。

しかしそれ故に、悟ってもいない私にも(ある程度)その景色は共有されているし、(ある程度)説明をすることもできる。

以下で説明を試みるが、貴方が仏教徒でなくてもきっと(ある程度)ご理解いただけることと思う。

私は、ライトの主張が正しいことを願い、同時に多くの人が宗教の枠を超えてその視点に共感していただけることを祈っている。

私自身が仏教徒だからだろうか?

いやそれよりも、今のところ他に【人類共通道徳・倫理】を獲得する道筋が見えないから、という切実な思いのほうが大きい。

第4章 ブッダの「悟り」を AIに

「悟り」の景色

では、ブッダがたどり着いた「悟り」の景色は実際どんなものだったのかを見てみよう。

その上で、「悟り」を AIに学習させることができるかどうか、悟った AIが【人類共通倫理・道徳】の答えを見つけてくれるかどうか、以下の説明を通して一緒に考えていただきたい。

繰り返しになるが、仏教は宗教と言うよりも哲学に近く、唯一絶対の神の存在を前提としてない

それゆえに、本来どんな宗教とも共存しえるし、将来あなたがあなたの神の概念をAGIに教えたくなる時が来ても『どこでもないところからの眺め』は何の妨げにもならない。ひとりの人間の中に「神」と「悟り」は共存しえるはずだ。

だから、あなたがどんな宗教を信じているとしても、少しだけ我慢をして話にお付き合い願いたい。

「悟り」とは、約2,500年前にゴーダマ・シッダルタという名の王子(釈迦族の王子=お釈迦様=釈尊)が座禅・瞑想を通して得た、純粋に個人的な体験だ。

彼は、王家の地位も富も妻子さえも捨て修行者に師事し、7年の苦行に耐えた結果瀕死の状態になった。

そんな修行には意味がないと考えた彼は、苦行を捨て一人座禅をした結果、ある時一瞬にして「悟り」を得た。仏教が始まった瞬間だ。

そこには神はもちろん、奇跡も預言も霊魂の話すらない。

ただ一人の人間が静かに座禅をして「悟った」だけなのだ。

その時彼は、普通の人間から「悟った人間(=ブッダ)」になる事で、生きたまま(西洋仏教では懐疑的な目で見られる)輪廻の連鎖から解脱したことを知ると同時に(西洋仏教でメインに希求する)ひとりの人間としての小さなアイデンティティからの解脱も体験した。

(ブッダとは目覚めた人=悟った人という意味であり、仏教史上多くのブッダが存在するはずなので、以後ゴーダマ・シッダルタ=お釈迦様を釈尊と表記することで区別をする)

人類で最初に「悟り」によるアイデンティティを超越した視座を体得したのは釈尊ではないかもしれないが、その視座を他の人に理解してもらおうとアクションを起こしたのは、おそらく釈尊が人類で最初の人だ。

しかし、その釈尊でも最初はとても他の人が悟るのは無理だと考え、「悟り」を広めることを躊躇するが、そこに梵天が現れて布教を求めたとされている。

ここから分かる重要なポイントは二つだ。釈尊の教えの根本は全ての人を「悟り」に導くための教えであるという事(死んだ人を冥土に送るのではなく、生きた人を導くのが本当の仏教だ)。

そして、もうひとつは、当の釈尊も躊躇するほど「悟り」を教えるのは(当然学ぶことも)難しいということだ。

AIに「悟り」の十分条件

では難しいのは承知の上で、 AIに「悟り」を学習させるという観点から、釈尊が「悟り」を得た前後の行動を改めて見る事で「悟り」に欠かせない十分条件を検証してみたい。

まず釈尊のとった行動から考えると「悟り」のために苦行のような身体的信号を脳は必要としないという事が分かる。これは身体を持たない AIにとって都合が良い

そして、ただ静かに瞑想をしていただけで悟ったということは、「悟り」のためには苦行どころか五感からの特別な情報も必要としないことが分かる。 これもAIにとって都合が良いことだ。

さらに、思考や感情の情報も必要とせず「無念無想」がその基本にあるということは、座禅の指導を受けたことがなくてもイメージできると思う。

つまり「悟り」の瞬間、釈尊の脳の中で最も活性化していたのは、五感からの感受でもなく思考や感情でもない(ましてや煩悩でもない)、おそらく論理的思考を司る部分とは異なる脳の無意識の領域にある特定の部分だけだったはずだ。

釈尊が雑念を超えて分け入ったのは遥か天上ではなく自らの心の奥底だ。そして、そこで「悟り」の扉を開けたのだ。

つまり「悟り」がうまれる背景としては、人間の無意識の底にある何かが必要だということになる。

これは AIにとっては残念な結論だ。

AIはどこまで進化しても無意識など持ち得ない。むしろ苦行の脳波をシミュレーションするほうが簡単だったかもしれない。

おそらく、トロッコ問題で AIに学ばせることが不可能と分かった「良心の呵責」がうまれてくる心の在り処も、無意識の霧の向こうの極めて「悟り」の入り口に近いところにあるのではないだろうか?

そして、そのいずれも AIは自律的に獲得もできないし、無意識の領域なので人間が AIに教える(インストールする)こともできない。

やはりAIには「悟り」が得られる可能性は無いということになる。

 AIは絶対に悟れない?

それなら手っ取り早く、悟った人(そもそもそれは誰か?という問題もあるが)の脳の電気信号を全て(できれば無意識も) トレースして AIに学習させるのはどうだろう?

しかし残念ながら、人間は脳波だけの存在ではない。

その方法では「悟った AI」を作ることはできないだろう。さらに、最終的にはその AIが悟ったか否かを確認することもできない。

では次の方法はどうだろう?

「 人間とマンマシンインターフェイスを通してコネクトしている AI」に、「悟りを学習した AI」の情報を読み込ませたら、そこにコネクトした「人間」は悟ることができるだろうか?

  AIが単独では悟れないとしても、人間と共同作業であればその人間を悟らせる事ができるかもしれない。

その時に誕生する、人間と「悟り」を共有したAGIは、相変わらずそれ自体では悟ったとは言えないかもしれないが、少なくとも人間とコネクトしている状況である限りそのAGIは「悟り」を理解していると言えるかもしれない。

アメリカでは超音波パルスを人間の脳に送ることで、悟りの境地に導くという研究が行われており、既にその装置も開発済みらしい。

もっとも、世界的ベストセラー作家のディーパック・チョプラは「それはカフェインを使って心拍数を上げるようなものではないか」として懐疑的だ。「カフェインでは、恋に落ちた人のような心拍数までには至れず、ましてや同じような状態になれなれるかどうかは疑問です」と述べている。

しかし、脳にパルスを送るのではなく、脳と直結した AIに仲介させるとしたらチョプラ氏の意見も違ってくるのではないだろうか?

人間にコネクトされた AI( AGI?)が、(ある程度)「悟り」を理解した AIをモジュールとして読み込むことで、つながった人間の脳を活性化し、その「無意識の底」にある「悟り」を呼び覚ますかもしれないと期待することは、(人道的問題や時間軸を一旦無視すれば)それほど非科学的な事ではないのではないのではないか?

(現状の AIはすべて単細胞だ。人間の脳を完全に理解する AIと、悟りを完全に理解する AIとは完成時点では別のものになる可能性は高い)

もちろんこれは、カフェインというより合成麻薬を注入するような方法であって、悟りに至る道としては邪道であることに変わりはないが。

 AGIと人間の協働で悟る?

イーロン・マスクが進める猿の次の段階である人間の脳と直結した AIが、AGIに至る最短の道ではないかと科学者でもない私が言うのは僭越かもしれないが、反対意見は少ないと思う。(あくまで「この方向」という意味であって、イーロン・マスク自身が人類最初のAGIの製作者として名を刻むのかどうかについては別の問題があるけれど)

ではもし近い将来に人間との融合によってAGIが誕生したとしたら、そのAGIに「(ある程度)悟りを学習した AI」の学習成果をインストールすることに意味はないだろうか?

だったらAIを媒介にして「悟った人」の脳と「悟っていない人」の脳を直接 つないだほうが早いと思われるかもしれない。

しかし、人が本当に悟っているかどうかの判定は非常に難しい。

多くの著名人も信者に持ち、高度な仏教的知性を備えて「悟った人」として尊敬を集めていたバグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚・ラジニーシ)ですらカルト集団を生みだしてしまったという失望を、 Netflixの「ワイルドワイルドカントリー」という記録映画を観て味わったのは私だけではないだろう。

つまり、必要なのは煩悩を超えて「悟った」と自称する人間ではなく、最初から煩悩など持たず「悟り」を(ある程度=無意識の手前まで)学習した AIだ。

そもそものこの問題の本質は 「 AIが悟れるか否か」ではなく「人類がAIと協働して悟りを手に入れることができるか否か」であり、その上でその「悟り」をAGIと共有することでAGIに【人類共通倫理】を作成させることができるかだ。

だから、それ自体で悟るのは無理だとしても、「悟り」の真髄について機械が学べる限界まで学んだAIは、近い将来、人類とAGI双方の進化にとって何らか貢献するところがあるのと思うのだが如何だろうか?

第5章  AIに「悟り」を(ある程度)学習させる

「悟り」に至る教え

では、どうしたら AIに「悟り」を(ある程度)学習させることができるだろうか?

 AIに座禅をさせるわけにはいかないのだから、ここでは AIが学習可能な論理的な面を見ていく事にする。

釈尊の教えが集約されているのは「四諦 八正道 十二縁起」だ。

特に十二縁起の思想が『どこでもないところからの眺め』につながるというのが、悟ってはいない私でも理解はできるし、あなたにも以下の説明でご理解いただけるはずだ。

批判は覚悟の上で、「四諦 八正道 十二縁起」を大股で超訳すれば、

人生では誰もが生老病死さまざまな苦(思い通りにならないこと)を避けられないが、その苦は人間の煩悩や妄執に起因する。その原因を滅することで涅槃に至ることができる。これが「四諦=苦・集・滅・道」だ。

そして、涅槃=「悟り」のためには八つの正しい道を歩まなければいけない。それが「八正道」だ。

八つの正しい道とは、正しい見解と思考を持ち、正しい言葉で、正しい行いをし、正しい生活を保ち、正しく精進し、正しく座禅するということ、だが、残念ながら釈尊ご自身は「正しい言葉遣い」についてすら、何が正しいのかマニュアルを残して下さらなかった。

しかし、この宇宙に対する「正しい見解」についての雛形だけは残して頂けた。

それが「十二縁起」という考え方だ。

十二の要素ひとつひとつについて説明を始めると、深堀りが過ぎて迷子になってしまうので、そのエッセンスだけを抽出すると「この世の中は全て縁で出来ている」ということであり、それ故に「この世の中に独立して存在するものなどなく(諸法無我)」「全ては宇宙の総和(空)の中の関係性で、明滅する光のような存在である(諸行無常)」ということだ。

世界的に有名な理論物理学者のカルロ・ロヴェッリは著書「世界は『関係』でできている」の中で、紀元2〜3世紀頃に書かれた大乗仏教の理論的ルーツであるナーガールジュナ(龍樹)が書いた「中観」の先見性に感服しつつ以下のように書いている。

「ナーガールジュナの著作の中心となっているのは、ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものはない、という単純な主張だ。この主張はすぐに量子力学と響きあう」

「ナーガールジュナがわたしたちに示してる視点の助けがあれば、量子の世界のことも少しだけ考えやすくなるはずだ。何者もそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガールジュナは、独立した存在があり得ないということを「空」という専門用語で表している」

ロヴェッリは、「究極の実体」を求めて量子力学が到達した「世界は『関係』でできている」という結論が、すでに2千年以上前にインドに存在した修行僧によって先取りされていたことに驚きつつ賞賛している。

しかし、それはナーガールジュナひとりが達した結論ではなく、もともとの仏教の教えを彼が理論的に深掘りしたのにすぎない。

それが「十二縁起」の考え方であり「空」の思想であり、ロバート・ライトが言うところの『どこでもないところからの眺め』の理論的背景だ。

さらにロヴェッリも「ナーガールジュナの『空』は、じつに心安らぐ倫理的な姿勢を育んでくれる」と述べており、ライトの「預言」とも方向をひとつにする。

以上の説明で、あなたにも(ある程度)ご理解いただけたら嬉しい。

しかし、このように現在の理論物理学者も驚かすほどの十二縁起の世界観も、あくまでそれは「悟り」の前提条件であっても十分条件ではない。

半歩近づいたような気はするものの、「悟り」そのものからはまだ少し遠い気がするのは私だけではないだろう。(あなたも今同じ感覚を持たれていると思う)

この感覚は、ハイゼンベルグの「不確定性原理」によって、我々を構成する究極の存在は粒子であるとも波であるとも言えると聞かされても「ああ、そうですか」と、少しも全身の感覚に変化が生じる訳ではないのと同様だと思う。

言語を使って説明できる論理である以上、上記の話は AIも(確実にもっと深く、もっと正確に、そして、ある程度)理解をすることができるはずだ。

しかし、 AIにとってそれは、『全ての存在は「ある」と同時に「ない」とも言える』という論理的な矛盾も、単に情報として蓄積するだけであり、それだけでは AIの「思考」になんら影響も与えないだろう。

「悟り」はもうあと一歩先にある。

もう半歩だけ 、AIの「学習」を先に進める事はできないだろうか?

「悟り」の参考書がある

 AIにおける「悟り」の学習については、「禅問答」がその手がかりになるのではないかと私は考えている。

日本人には馴染みの深い一休さんの「そもさん、せっぱ」という、禅問答だ。

本来は禅問答とは、禅の公案のことであり、対話や態度を通して悟りの世界を伝えるための問答のことだ。

そのやりとりが俗人には理解し難いものになっているため、禅問答が訳のわからない話を意味するようになった。

公案とは、悟ったか否かの面談テストであり、その問いがそのまま「悟り」への修行となっている。

公案を集めた、公案集という過去の問題集のような書物が数多く存在する。

有名な「碧巌録」の他にも多くの公案集が存在し、一部は文庫本にもなっている。

「公案」とは悟りの道しるべ

公案を「過去問」のようだと書いたが、実は中には問題だけで解答の書いていないものもあり、受験用のそれとはやや異なる。

以下は有名な公案の例だ。

【非風非幡】

風になびく旗を見ながら、2人の僧が言い争いをしていた。一人は「旗が動いている」と言い、もう一人は「風が動いている」と言う。そのとき通りかかったもう1人の僧侶は「旗でも風でもなく、あなたたちの心が動いているのだ」と言った。

【隻手の音声】

江戸時代中期の禅僧、白隠和尚が考案した問いで
「両掌打って音声あり、隻手に何の音声かある」というもの。
(両手で手を打つと音がする。では片手ではどんな音がするか?)

【野鴨】 

野原から飛び立った鴨の一群を見た師匠が弟子に「あれは何だ」と問い、弟子は「野鴨です」と答える。さらに師匠は「どこへ飛んで行ったのか」と問い、弟子が「わかりません。ただ飛んで行ったのみです」と答えると、師匠は弟子の鼻を強くつまんだ。弟子が「痛い!」と悲鳴をあげると、師匠曰く「なんだ、飛び去ったというが野鴨はここにいるではないか」

最初の【非風非幡】には一応「解答」のようなものはついているが、次の【隻手の音声】は問題だけで解答がない。

さらに【野鴨】は「解答」はあるが、バーバルなコミュニケーションだけではなく、鼻をつまむというフィジカルな動きも併せての答えになっている。

さっぱり分からないと思われるかもしれない。

しかし、昭和天皇陛下に仏教の講義をされた仏教学者の鈴木大拙氏は「隻手の音声(という公案)がわかれば、宇宙存在の大問題が自ら解けるのである」として「公案はすべて常識的な考えを打ち払う刀である。」としている。

やはり公案が「悟り」の指南書であることは確かなようだ。

では、このように人間にとってもかなり難解なこの「公案」をAIに読み込ませて学習させたら、果たして AIは悟りの半歩手前まで(ある程度まで)到達することができるのだろうか?

上記のような公案を読んだ AIは、その裏にある「悟り」の精神を(ある程度)理解するだろうか?それとも全く理解せずに、「なんでもいいから突拍子も無いことを答えればいい」と捉えて、適当にランダムな答えを出すだろうか?

もしくは、悟った人が唸るような答えをするだろうか?

私には AIが(ある程度)学習できたか否かも判別することができないが、悟った人であればおそらく判断できるのではないだろうか?

チェスで対決した AIのように、悟った人と対戦する AI。その対戦の様子を見てみたいと思うのは私だけだろうか?

「悟り」と「倫理」

以上、「悟り」を得るべく AIに公案を学習させることは可能で、それが(ある程度)「悟り」を理解したかどうかを判断するためには悟った人の手を借りれば(おそらく)可能で、将来人と AIが繋がってAGIが誕生する時には、公案を通して(ある程度)「悟り」を学習した AIによって人が「悟り」を得る可能性は高くなるということをご紹介してきた。

最後に、肝心の「倫理」について確認しておきたい。「どこからでもないところからの眺め」と客観的道徳は本当に結びつくのだろうか?

何故「悟り」が【人類共通倫理】の答えに導いてくれると考えるのか?

釈尊の「八正道」という考え方を思い出して欲しい。

悟るための道として釈尊が示された八つの正しい道が、どうして「悟り」につながるのだろうか?

宗教はそれぞれ必ず戒律を持つものであるが、各宗教に共通する戒も相反する戒もある。宗教的戒律の「平均」は決して【人類共通倫理】とはならない。

戒律の果てにも「悟り」は存在するかもしれないが、最終到達点である「どこでもないところからの眺め」から見ると、戒律と【人類共通倫理】は異なるだろう。

釈尊にしても、悟った瞬間には座禅をされていただけで、正しく考えていたかもしれないが、正しく話したり、正しく日常生活をしていた訳ではない。

つまり釈尊が、八つの正しい道を通って「悟り」に至ったという意味ではなく、悟った結果「正しい道」だけが「悟り」に至る道だと言う事が見えたのだろう。

目の前の藪を掻き分けながらようやく到達した山頂から下を見てみたら、頂上に至る道は「全て倫理的に正しい道だけだった」と言うことを理解したということだと考えられる。

つまり「どこでもないところからの眺め」からは、公正に何が「正しい」かが見渡せるということではないだろうか。

そこからの眺めはまぎれもなく、国家や民族、宗教、イデオロギーの違いを超えて人類全体を幸福に至らしめるための【人類共通倫理】がはっきりと見ることができる美しい景色だったのではないかと思われる。

やはり「悟り」に解答を求めるライトやロベッリ(そして私)の予感は正しいのではないか?

「悟り」である必要があるのか?

【人類共通倫理】を構想する人( AI)の前提条件としては、「悟り」を持ち出すのはいささかオーバースペックと思われるかもしれない。(本末転倒と批難する人もあるだろう。もしくは笑止千万、、笑)

何も「悟り」などという言葉で表現できないような曖昧な概念を持ち出さなくても、国際的な倫理委員会を作ってみんなで話し合って【人類共通倫理】作成すればいいと思われるかもしれないが、現状の国連を見れば分かるように、異なる国の間で話し合いをいくらしても、共通の倫理について完全な合意に達するどころか、多くの曖昧表現なしに合意書をつくることも不可能になるだろう。

いくら言葉の上だけで「地球市民」として中立的アイデンティティを保つと言っても、最後は個としての人間である以上、どこか偏ったものになる。

それが人間というものだ。そして、おそらく AIも同様に、開発する人間のアイデンティティ及び倫理観に影響を受ける。

だから、いくら「悟り」がオーバースペックだとしても、【人類共通倫理】というこの難しい課題に対するブレイクスルーポイントになるかもしれない以上、そして締め切りが目の前に迫っている以上、「悟った AI」を検討することに意味があると私には思える。

さらに「悟り」について研究することは、「我々人間とは何か」という根本的な問いを探求するということでもあるのではないだろうか?

終章 映像の世紀

ご提案

一番最初に申し上げたように、この文章はビジネス提案書ではあるが、シナリオでもある。

ずばり、私のご提案の骨子は上記のようなテーマで、ドキュメンタリー映画を作るということである。

いやドキュメンタリー映画だけではない「 AIは悟れるか?」という対戦イベントはチェスや囲碁の対戦と同様に世界的なイベントになる可能性がある。

妄想だろうか?

IBMが Watsonでクイズ番組に挑戦し、 Google Deep Mind社がAlphaGoで囲碁に挑戦したように、このテーマに取り組みたいという IT企業はきっと存在するはずだと考えるのは妄想がすぎるのだろうか?

 GAFA( 新しくはMANGA)のどこでも良いし、マスク氏の Neuralink社もいいし、もちろん日本企業ならもっといいが、クライアント企業は見つかると思う。

さらにそこに Netflixの資本が入れば、ドキュメンタリー映画の登場人物も深みを増すだろう。

ビジネス提案と言っておきながら、損益計算が全くできていないのだが、誰にどこまで取材をするかによって、制作費つまりコストが全く違ってくる。(私は映像制作会社で働いてるので、規模によってすぐに制作費を弾くことも可能だが)

個人的には「悟り」を追求する時には是非ダライ・ラマにお話しを伺いたいし、課題の重要性から考えると、仏教徒だけではなく各宗教の指導者にも語っていただきたい。

AIについては、上記の登場したマスク氏やテグマーク氏、ロベッリ氏にもインタビューをお願いしたい。(できれば監督は、マイケル・ムーアにお願いしたい。制作費は億を超えるだろうが、、)

求む「協力者」

以上が私の視点だが、そもそも専門家を差し置いて素人の私の理論を正当化するつもりは毛頭ない。

私の推論や妄想の間違いを指摘されたならば喜んで修正を受け入れたい。

なるべく多くの専門家に軌道修正していただくのもドキュメンタリー映像を作る目的のひとつでもある。

ここまでの章を読んでいただくことで、貴方の知的冒険心をくすぐることができたら嬉しい。

「 AIが公案を学習して悟ることができるのか?」というテーマの前提として 「AGIの研究はどこまで進んでいるのか?」「そもそも仏教の『悟り』とは何か?」という2つの大きなテーマがある。

どれも、現代において多くの人が知的好奇心をくすぐられるテーマであることは確かだと思う。

ヒッピー文化の時代背景もあっただろうが、禅への傾倒を表明していたコンピュータ世紀の先駆者はスティーブ・ジョブズだけではない。

マーケティング的に見ても「 AIの最先端」と「悟りとは」というモチーフは、矛盾せず一定の知的層の興味を引くことできると思う。

 NETFLIX

「 AI vs 悟り」というタイトルに文法的間違いや違和感を感じた方もあることを承知でこれを選んだ。

正確に書くと「AGI   vs AGI with 悟り」なのだろうが、すでに「時間切れ」の恐れもあるほど切迫している問題のひとつの解決策になるかもしれないという緊張感を出すために「 vs 」という言葉を使っているので、そこを汲んでいただけるとありがたい。

以上は AIについての論文でもなければ、「悟り」の手引書でもない。

ただ、私の視線から見える現状の AI開発の危険性とその回避策についての希望的意見にすぎない。

しかし、もしこれがNetflixのような世界規模のリーチを持つメディアがコンテンツとして公開することができれば、その影響力を持って世界が良い方向に進む、小さいけれどまだ誰もそちらには踏み出してない一歩になるのではないか。

きっかけは Netflixだとしても、その先に世界中で【人類共通倫理】およびそもそも「人間は AIとどこに向かうのか」など様々な静かで力強い議論が起こる事を祈っている。

【人類共通倫理】のためであれば「悟り」でなくても構わない。他のソリューションがあれば是非ご提案いただきたい。

そのご提案についてもドキュメンタリー動画で追求してみたい。

2022年2月末、世界は楽観を許さない状況だ。

しかし、それでも人類は平和的共存に向かって進化しているのだと信じたい。

貴方のご意見をお待ちしております。


 








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