まち・家族・選択の話『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』という映画が大好きです!


〜念のためのあらすじ〜
春日部にできた大型娯楽施設「20世紀博」。懐かしのおもちゃや食べ物、遊びが楽しめる20世紀博に、全国の大人たちは夢中になっていた。主人公 しんのすけの両親も例外ではなく、大人たちは異常なほどノスタルジーに傾倒していく。
ある日、日本全国で大人の集団失踪事件が起こる。それは20世紀博をつくった「イエスタデーワンスモア」による、日本を20世紀からやり直し、理想の21世紀をつくるための計画の始まりだった。
しんのすけは自分の家族を取り戻すため、そして21世紀を手に入れるために立ち上がる。


この映画は多くの方々に愛されているので、検索すればいくらでも賢い考察や素敵な感想が見られます。
今更何か言及することもない気がするのですが、大好きな映画についてよく考えて、ここが素敵だなと思う時間が自分の人生にあってほしいと思ったので、記事を書いてみます。

以下、ネタバレ注意です。
まだこの映画を観たことのない方は、今すぐ記事を読むのをやめて映画を観てください。配信サービスで観られるはずです。頼みます。損はしません。

「まち」「家族」「選択」をテーマに語っていきます。

お。

1.ケンとチャコのまちづくり

「イエスタデーワンスモア」のリーダーであるケンとチャコは、21世紀に居場所を見出せずにいました。
彼らは自分たちの生きる場所を得るために、20世紀のまちを完全再現した空間をつくり、そこから発生する懐かしい匂いを全国へ拡散することで居場所を拡大しようとしていました。

最終的に彼らの計画は頓挫し、まちは破綻してしまいます。
しかし、まちとしての機能はもともと果たしていなかったように思えます。

久々に地元に帰ったら、街並みも住人も変わっていた。誰しもが経験したことのある、ごく自然な光景です。
建物は古くなれば建て替える必要がありますし、何年か経てば亡くなる人や生まれる人も出てきて、まちの住人も入れ替わります。
もし、建物は同じ建物のまま、住人も同じままであれば、まちは廃れて誰もいなくなってしまいます。寂しいことですが、まちを機能させるために変化は必要不可欠です。

しかし、ケンとチャコが作ったまちは不自然なほど不変です。

彼らのまちの空はいつでも夕焼けで、時の流れを感じさせません。住人たちも、毎日同じことを繰り返す生活をしています。
また、まちは現実の世界から隔離されているので、変化するきっかけが入ることもありません。

それでも、まちの人々は生きている人間なので、いずれは老いて死んでいきます。
変化を避けられない人間が、変化のない場所に不変の存在として生き続けることは不可能です。

作中では、しんのすけたちの乱入によってまちは解体されてしまいますが、それがなかったとしてもいずれは破綻していたのではないかと思います。

あのまちの人たちは、破綻の可能性に気づかないふりをしながら、懐かしさを必死に再現しようとしていたのかもしれません。
彼らは愚かではありますが、叶わない夢を守りたいという彼らの純粋な願いは馬鹿にできないし、愛らしく感じます。

2.家族と非家族

ケンとチャコは、家族に属したくない、あるいは事情があって家族に属せない人たちだと思います。

作中で、ケンとチャコは夫婦ではないことが明言されています。
また、ひろしの「家族がいる幸せを、あんたにも分けてあげたいぜ。」という言葉に苛立ちを隠せないシーンが印象的です。

彼らは、家族というものに強いこだわりをもっているようです。
おそらく、彼らにとっての家族は「まち」そのものだったのではないでしょうか。

少し前までの日本は、今よりも家族の境目があいまいで、まちという大きな共同体の中で生活するのが当たり前だったそうです。

今の日本では、家族という小規模な共同体で生活することが当たり前になっています。まちに属しているという意識が希薄で、良くも悪くも人間関係の境目が鮮明になってしまいました。
ケンとチャコは、きっとそこであぶれてしまったのでしょう。

野原家のように家族という居場所を見つけられた人々は、孤立することなく平和に過ごすことができています。
しかし、ケンとチャコのようにまちを拠り所として生活してきた人たちにとっては、耐えがたい変化だったのかもしれません。

イエスタデーワンスモアの計画が破綻したのち、人々は現実の世界にもどり、それぞれの家へ帰ります。

ケンとチャコも自分たちのつくったまちから出ていきます。
彼らは自分たちのまちに家を構えていたので、おそらく現実の世界に彼らの帰る場所はありません。
彼らは言葉を交わすこともなく、家一つない山々へと消えていきます。

春日部の家々に灯りがともる中、ひろしとみさえの「ただいま」に対して、しんのすけが「おかえり父ちゃん母ちゃん」と応えて、物語は幕を閉じます。

このラストシーンすごすぎませんか?
ケンとチャコにおかえりと言ってくれる人も場所も消えてしまったけれど、望んでいた21世紀はもう来ないけれど、それでも生きていかなくてはいけないという、残酷で現実的な、観客へのエールとも呪いともとれるラストシーン。感動と面白のどさくさに紛れて、重たいお土産を観客に渡してくるあのシーンはすごく好きです。

3.未来を選択する

ケンは自ら選択することをしない人間です。

自分たちの大事な計画を邪魔する野原一家には「お前たちが本気で21世紀を生きたいなら、行動しろ。未来を手に入れてみせろ。」と選択の余地を与えます。
また、まちの住人が現実の世界に帰ろうとしたときも「各自、好きなようにしてくれ。」と選択を委ねました。
そして、チャコが自殺をほのめかしたときさえも、それを止めようとはしませんでした。

ケンは他人の選択した結果に追随する形でしか行動していません。組織のリーダーであるにもかかわらず、自ら何かを選び取ることを避けています。
もしかすると、彼は選択しないことで何にでもなれる余地を残しておきたいのではないでしょうか。

そう考えると、ケンとチャコが同棲時代を過ごし続けている理由も何となくわかります。

結婚を選択すれば家庭に属さなければならないし、夫婦という役割に固定されてしまう。しかし、同棲している二人という、どこにも属さず、何者でもない存在であれば、どこにでもいけるし何にでもなれる。何も確定しないことで未来に期待し続けられる。という思想で結婚を選択していないのかもしれません。

一方で野原家は、計画を阻止して未来を手に入れることを選択します。懐かしさに後ろ髪を引かれても、自分たちの選択を信じてがむしゃらに走り続けます。
結果として、野原家は未来を守り、21世紀をこの手に取り戻しました。

「ずるいゾ!」

これは計画が破綻し、自殺を図ろうとしたケンとチャコに向かってしんのすけが放った言葉です。
しんのすけは幼いので自殺という概念を知りません。彼らが二人だけでバンバンジージャンプ(バンジージャンプの言い間違い)を楽しむつもりだと勘違いして、ずるいと言っただけなのですが……。

ケンは、この言葉が自分の生きざまに向けられていると感じて、ハッとしたのではないかと思います。

ハトの家族がタイミング良く飛び出してきたおかげで飛び降りずに済んだようにも見えますが、前のめりになった状態から体を引き戻すにはそれなりの力が必要です。

ずるいゾ!と言われたとき、何も選ばなかったことへの後悔が沸き上がり、咄嗟の判断で生きるという選択を瞬時に掴み取ってしまったのではないでしょうか。

自ら掴んだ未来で、ケンは「死にたくない」というチャコの本心を聞くことができました。
「生きたい」わけではないようなので、この選択は彼らにとって最善ではなかったかもしれません。
しかし、死にたくもないのに死んでしまうよりは良い選択です。

この映画には「生きていくしかない」と諦めてから、ようやく未来を選択できるというメッセージが込められていると感じています。
子ども向けの映画ではありますが、ケンとチャコの生きざまを通して「お前らに言ってますよ!」と大人の肩を揺さぶってくれる、力強い作品です。

おわり

大好きなオトナ帝国について6時間近く考えることができました。嬉しいです。
映画鑑賞自体は得意ではないのですが、この映画は何十回と観ては「お姉さんみたいな綺麗なお姉さんと結婚したいから!」のくだりで泣いています。あのシーン、全ての映画の中で最も良い。

この期に及んでまだ観ていない方がいたら、本当に頼むから観てください。ギャグシーン満載で児童によるカーアクションもあって、1時間半にまとまっている本当に良い映画です。頼みます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
じゃ、そーゆーことで~。