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自分に優しく ひとに優しく~発達障害の痛みを汲む~

私のページをご訪問くださいまして、本当にありがとうございます。感謝します(*^_^*)

今日は「自分に優しく ひとに優しく~発達障害の痛みを汲む~」と題してお話ししますね。

皆さんよくご存じの通り、発達障害については、その存在そのものは広く知られるようになりました。

しかしながら、この非定型発達の特性を持つがゆえの彼らの孤独感不安感については、まだ周知されているわけではないようです。

今日の記事では、発達障害を持つ人たちが抱えている寄る辺ない孤独感や不安感についてまずお話しします。

次に、障害と言うハンディキャップを受け容れる「障害受容」について、その難しさを乗り越える「物語」をお話いたします。

最後に、発達障害を持つ当事者とその親御さんが「自分に優しくして、ひとに優しくする」ことの意義について分かち合えたらと思います。

それではどうぞよろしくお願いします(*^^)v


発達障害を持つ人の孤独感と不安感

人と違うことが苦痛な日本で生きる苦しみについて

聖徳太子が『和を以て貴しと為す』と唱えたという伝承がいまもなお語り継がれるほど、日本という国は「全体の調和を重んじ和を乱さない」ことを心がけて来た稀有な国家と言ってもいいでしょう。

そのように全体の中にとかく個としての特性や個性が埋没しやすい民族の中では、何事にも周囲の空気を読んで「世の中」とのバランスを取りながら行動することが求められます。

発達障害を持つ人は周囲の空気を読む」ことが苦手です。

その一方で、発達障害を持つ人たちにはその人なりの豊かな感受性と論理が備わっており、当然の帰結として、自分の気持ちや意見に対するこだわりがあります。

自閉症の人は「心の理論」を持たないとよく指摘されますが、自閉症スペクトラム(障害)の方はその感性のあり方が定型発達の人とは違うだけで、実は彼らの感受性はしばしば非常に鋭敏です

他者との異質性が良い方に芽生えれば、それはほんとうに素晴らしいことなのです。歴史上名を残した偉人達には、発達障害を思わせるエピソードの持ち主が稀ならずいますからね。

しかし現実には、和を重んじる日本人の中では発達障害を持つ人は何かと浮きやすいですし、周囲からの侵入やいじめを受けやすいのですね。

発達障害でなくても、個性あふれる人や、他者とは違う特性がある人は、調和を過度に重視する日本社会では暮らしにくい傾向があります。

ノーベル賞を受賞するような独創的な人は、日本での研究生活ではかなり難儀な思いをしていますよね(^-^;

『和を以て貴しと為す』この国では、個性的な人や独創的な人、そして非定型発達の特性を持つ人というのは、世の中の人と同じように生きることが難しい自分に人知れず思い悩み苦しんでいるのです。

発達障害を持つ人の孤独感と不安感~障害受容の苦しみについて

人が受忍しなければならない苛酷な障害を受け容れること(≒障害受容)は、お医者さんや心理士の多くの先生たちが思っているよりも、遥かにハードルが高いものです。

障害が身体障碍や精神障害であろうと、あるいは発達障害であろうと、障害受容ということはしんどいものだと思います。

それは障害を「障碍」とか「障がい」と書きなおしても消えるものではないでしょう。

私は現在、消化器と前立腺のガンや膠原病や潰瘍性大腸炎やそのほか諸々の疾病を患い、医療の仕事から離れて療養中の身ですから、障害受容の辛さや切なさはそれなりにお察しできるつもりです。

私のように身体障害をその身に背負うことになった場合であれ、発達障害のように生まれながらに生き辛さをその身にまとっている場合であれ、「いったいなぜこの私がこんな目に遭わねばならないのか」という慟哭はあると思うのです。

発達障害を持つ子どもの親にとっても、わが子のハンディキャップを肝を据えて受け入れるのは大変な苦痛を伴います。

それは親としてまた人としての実存的な不安感と孤独感を伴うものであり、日本社会のメイン・ストリームから自分たち親子が外れてしまったという焦りと悲哀感をもたらすものです。

発達障害を持つ人とその親御さんが味わう「障害受容の苦しみ」というのは、社会から疎外されてしまうかのような不安感と孤独感を伴うものであり、その苦しみはおいそれと癒せるものではないのです。

障害を受容するためには自分の人生の「物語」を紡ぐ必要がある

障がい者やその親御さんが抱える「いったいなぜこの私がこんな目に…」という苦悩に対して、支援者は出来合いの答えを提供することはできません。

障がい者それぞれにハンディキャップの性質も悩みの趣きや深さも異なります。

ハンディキャップを背負うことになった人に必要なものは、出来合いのマニュアル的な「解答」ではなく、自分自身が納得できる「物語」を紡ぐために欠かせない「悩みを聴く耳」ではないでしょうか。

相手がたとえ親きょうだいであっても、苦しんでいる人が自らの不安と孤独を打ち明けることは難しいものです。

ひとに悩みを打ち明けるということは、特に発達障害を持つ人にとっては、話の聴き手に優位性を与えることを意味します。

ですから、非定型発達の特性を持つ人が私たちに悩み苦しみを打ち明けてきたなら、その人はこちらを信じていいかどうか試して賭けをしていると思った方がいいのです。

何しろ彼らはいつも世の中に対して生き辛さを感じている人たちですから、世の中に対してある程度適応しているように見える人たちというのは、自分とは異質の存在なわけです。

自分の話が理解してもらえるかどうかも分からない不安感を抱えながら、彼らは賭けをするような心持ちで聴き手に悩みの一端を吐露するのです。

ですから、私たちが発達障害の特性を持つ人の悩みを耳にする時に、もし私たちが彼らの「物語」の善き聴き手でありたいと願うのなら、「よく話してくれたね。話してくれてありがとう」と相手に感謝とリスペクトを示すことを忘れずにいたいものです。

発達障害を含めて、障がい者が自らのハンディキャップを納得できる「物語」に落とし込むためには、その「物語」づくりの話の聴き手が必要だと臨床心理学では言われています。

私もその通りだと思います。

聴き手が「出来合いのマニュアル的な解答」を欲しくなるのは、障がいを担う人の話の重さに耐えられないからであることが多いのですね。

それも無理もないことです(^-^;

しかし、発達障害を持つ人が日々その重さと向き合いながら生きていることを私たちは念頭に置きつつ、彼らの話を聴くなら聴くで、相手の話にコミットして傾聴する態度が求められることでしょう。

発達障害を持つ人は、自らの前に立ちはだかる苛酷な課題に対して立ち向かう力を得るために、悩み苦しみの聴き手をどうしても必要とするのです。

彼らが障害受容をして、人生に対して強く雄々しく立ち向かうことができるためには、自分の置かれた環境を納得して受け容れるべく、自分だけのオリジナルな物語を彼らが紡ぐ必要があると私は思います(*^_^*)

自分に優しく ひとに優しく

以上お話ししたことからも明らかなように、非定型な発達特性と社会適応に関する課題を持つ人と関わりがある方々は、まず何よりもご自身に対するケアを心身ともになさった方がよろしいかと思います。

精神科医や臨床心理士の精神衛生があまりよろしくないことは有名ですが、それだけにその道の先生たちもご自分のセラピーを受けたりして、ご自身のケアをなさっていますよ。

発達障害という特性は、それを担う人にとっても、その親御さんや支援者にとっても、シャープで深い問いかけを与えてくるものです。

「私は(この子は)どうして当たり前のことができないのか」という苦悩に始まり、「私は(この子は)何のために生きているのか」という魂の咆哮すら放たれうるものです。

自助会や当事者のコミュニティに入ってももう一つ馴染めないという悩みもよく耳にします。

自閉症スペクトラム障害を持つわが家の長女は、発達障害に特化した療育教室にも適応できなかったものです(^-^;

発達障害を持っていようと、定型発達であろうと、人それぞれに悩みや苦しみはつきものですよね。

確かに人の数だけ悩みはあると私も思います。

しかしながら、発達障害の持ち主が抱える寄る辺ない不安感と孤独感の問題は格別しんどいものだと私は思うのです。

ですから、ご自身がどうも生き辛くて仕方がないとお思いの諸兄姉や、またわが子が発達障害を持っていると見立てられてしまった親御さんは、どうぞまずご自分に優しくなさってくださいませ。

自分に優しくできないと、ひとにも優しくできないですよね。

日本の都市部はすっかり人情味に乏しくなって来てしまいましたが、そんな世相の中でこそ、発達障害を持つ人たちとその親御さんたちに対する周囲の眼差しが、少しでも穏やかで優しいものになることを私は願います

しかし人さまのことを私たちは変えることができませんから、難しい育児に携わる当事者としては、まずは健全な自己愛を保つようにしてみませんか?

私たちが自分を丁寧に労わり、その与えられた命を粗末に扱わず、自分に優しくなって初めて、人さまに優しくできるだけのこころのゆとりが生まれてくるのではないでしょうか。 

結びに

発達障害を持つ人が抱える不安感と孤独感に言及しつつ、またその方の親御さんが持つ焦りや疎外感にも思いを馳せながら、「自分に優しく ひとに優しく」というタイトルでお話しして参りました。

自らが障がい者であることを受け容れるためには、自分の人生について腑に落とせるだけの「物語」を紡ぐことが必要だということと、その物語づくりのためには真実な「聴き手」がいる必要があるということについて分かち合いました。

そして、発達障害という課題をわがものとして受け入れて乗り越えるための過程の中で、当事者の方々はまずは自分に優しくして、そしてその上で、発達障害を持つご家族の方に対して優しく穏やかに接して差し上げたらいかがでしょうかという御提案をいたしました。

いかがでしたでしょうか。

障害ということの本質や、それを受容するということの意味は、ひじょうに深い哲学的なテーマです。

ここに私が記したことが少しでもあなたのお役に立てたら幸いです(*^_^*)

この記事を最後までお目通しくださったあなたに、天からの豊かな祝福がありますように(#^^#)

最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。感謝します(*^^)v

妻が作成した手書きの「やることリスト」です。ASDの娘たちのために妻が記しました。


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KokiKobayashi
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