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想像と想像と想像 #31

「おめでたい期間」

12月も後半に差し掛かると、街は浮かれた気分を撒き散らす人々で溢れかえる。
それもそのはず、

・クリスマス
・有馬記念
・忘年会
・ホープフルステークス
・大晦日
・お正月
など一大イベントが目白押しである。
今回は、この世の中の浮かれムーブについて考察していきたい。

小さい時、「お正月が続けばいいのに」や「毎日がクリスマスだったら」なんてことを考えたことが、誰しもあるだろう。
お年玉が貰えることや、プレゼントが貰えること自体もすごく嬉しかったのだが、何よりも

「普段しっかりしている大人が浮かれている」

という事実が、子どもたちのテンションをあげていたのではないだろうか。

「大晦日は特別に夜更かししてもいいよ」
「サンタさんに会えるまで起きていられるかな」

これらのような、普段大人たちが禁止しているであろうことが平然と許可されることによって、また、大人たちが普段見せないような姿を見せることによって子どもたちの非日常感が掻き立てられ、12月末の期間を特別なものと位置付けているのではないだろうか。

では、なぜ大人たちはこの期間を非日常のものと位置付けているのであろうか。
これには、社会的な病理が染み付いている。

敬語
愛想笑い
責任感

このどれもが、社会で自立して生きていく上である程度必要不可欠なものである。
これらは、自分の社会の中での立ち位置を証明するものであり、人と関わっていく中で必ず必要なスキルともいえるものである。
これらのうち一つでも欠けてしまうと、社会から普通じゃないというレッテルを貼られてしまい、非常に生きづらくなる。
そのため、誰もが不本意ながらも、この3要素を意識して社会生活を営んでいくのである。

ただし、これを休みなく続けるのはとても息が詰まる。

「上司にうるせえと言いたい。」
「お前は尊敬できないからこれからはタメ語なと伝えてみたい。」
「家でゆっくりしてるだけで給料が欲しい。」
別に自分が困るわけじゃないからとネトフリを見ながらクレーム対応したい。」

社会人たちは、このような鬱憤の中生活しているはずである。
この鬱憤を365日抱えて生きるのは難しい。
かと言って、上司に「うるせえお前」なんて言えるわけがない。
そんな社会人たちが編み出した妥協案こそが、年中行事に位置付けられるものを全力で楽しむというものなのである。

この仮説が正しいとするならば、クリスマスやお正月といった一大イベントたちは、怒りの行き場を失った大人たちによって生み出された合法的かつ麻薬的なストレス発散行事なのである。

お正月は新年の始まりを祝うもの。
大晦日は今年の感謝を伝えるもの。
有馬記念は来年への飛躍を願い、人々の想いをのせて今年を総決算するもの。

これらは、百歩譲って前述した社会的病理から切り離すことができる。

ただ、クリスマスだけは違う。
クリスマスだけは許せない。

ツリーを飾る。
サンタさんにプレゼントを貰う。
ケーキをくう。
チキンをくう。

どこにおめでたさがあるというのか。
おめでたいのはタダでプレゼントをもらったと思って喜び、馬鹿の一つ覚えのようにケーキやチキンで食卓を彩る人々そのものである。

クリスマスの食卓を彩る食材たちの選考ポイントとして重要なものは、家族みんなで取り分けられるかどうかというものらしい。
アメリカでは、ケーキや七面鳥を食している。
では、日本ではどうであろうか。
日本でもケーキは登場する家庭が多いであろう。
では、七面鳥の方はどうであろうか。
まさかの、ケンタッキーである。
取り分ける要素の1ミリも感じない、あのケンタッキーなのである。
一つ食べてしまえば大抵飽きてしまい、手が汚れるだけのあのケンタッキーなのである。
クリスマス予約というめんどくさいシステムをわざわざ選択し、購入する日本人が大変多く存在するのが現場である。

このように、日本におけるクリスマスという行事には非常に矛盾点が多い。
浮かれすぎて救えないほど固定観念に囚われている日本人が、ごまんといるのである。

最後に、僕は以下のことを述べるために1600文字使った。

・有馬記念あたってほしい切実に
・明日バイト行きたくない
・僕も遊び行きたい

メリークリスマス。
以上。

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