想像と想像と想像 #42
「カステラの上のジャリジャリしたとこ」
カステラの上のジャリジャリしたとこ。
幼少期、この部分だけ食べたいと思っていた方も多いのではないだろうか。
僕自身、カステラの本体は甘ったるいし口の水分取られるのうざいしであまり好きではない。
ただ、カステラの上のジャリジャリしたとこだけは大好きである。
なんてったって、ジャリジャリしてるくせに口の中でとろけるのだ。
ほどよい苦味と甘味が口一杯に広がる。
他にも、ほっけの骨についてるぴらぴら。
上手に剥がせた時の快感と、噛めば噛むほど広がる塩味は何物にも変え難い。
パピコのちぎった方。
極少量しかない割に、最初に味わう部分だからか、本体の長い方よりも美味しく感じる。
アイスの外側についてるアーモンドっぽいザクザクしたやつ。
中のバニラが本体の大半を占めていることに憤りまで感じるのだ。
このように、考案した人は付属品ぐらいとしか考えていないような端っこの部分が、本当に美味しかったりする。
それだけで販売されていたら、買ってしまいたいと思っている消費者も多いのではないだろうか?
では、なぜ生産者たちはこの付属品たちをメインに据えた商品開発を行わないのだろうか?
それは、所詮付属品は付属品でしかなく、特別なものであるがゆえに意味を持つからである。
ピノのアーモンド味を例に出そう。
様々な種類の味が入ったピノのパックが販売され、初めてこのアーモンド味のピノを食べた16歳の夏、僕の細胞中に激震が走った。
気がつけば、我が家のパックの中にアーモンドの姿がなかったことに、初めて哀愁というものを感じたことを明確に覚えている。
それほどの衝撃が、日本中に走っていた。
平成から令和へのカウントダウンと並んで、ピノアーモンドがTwitterのトレンド入りしていたのである。
開発者は、フリップを持って、当時の菅官房長官の「令和」のような会見を開いてもよかったであろう。
それほどの発明であったことから、ピノのアーモンド味はすぐに単独で商品化され、市場へと売り出された。
2020年の出来事である。
コロナの拡大とともに、教科書に載るほどの偉業であると誰もが信じて疑わなかった。
しかし、現実はそうはならなかった。
単独で市場に殴り込みをかけたアーモンド味は、ピノのパックの時ほどの衝撃を残すことができず、今は市場に並ぶこともない。
結局、今までのピノだけが生き残っているのである。
あれほど渇望していたにも関わらず、特別感がないという理由だけで売れなくなってしまう。
ここに、人間の欲望の深さが垣間見えた気がした。
すぐ手に入るものには興味がないという習性は、あながち間違いでもないのかもしれない。
だから僕は、カステラの上の部分がまだ特別な存在であることに感謝して食べたい。
しかし、高価なカステラを買えるほどの余裕はない。
皆さんがどこか旅行に行った際のお土産として、一切れのカステラを僕に恵んで下さると幸いである。