僕が思う最後の砦

 何年か前までは水を飲むの嫌だったけど最近になっていろはす、南アルプスの天然水、ヴォルビック、エビアンは普通に飲めるようになったみたいです。
#飲まず嫌いではない #飲みやすさって大事

 さて本日の思考の中は福祉的な観点から。日本にはセーフティネットとして生活保護法があるんだけど、セーフティネットっていうくらいだからそれまでの間にも多くの制度がある。でも、それってあんまり認知されていないなって思う。強いて言うなら、年金、医療保険、介護保険はよく知られているのかな、、。でも、年金生活って貯金とか他にお金をもらう方法がなければ生活保護を頼るようになるみたい。これって、結局生活保護を中心に制度が出来てるんじゃないかって思う。制度を策定することがあらゆるステークホルダーのメリット、デメリットを考えたり、倫理的かや実現可能な運用が出来そうかを1から作るわけだから本当に難航するものであることは重々承知している。でも、僕の頭の中では、慈善から始まった福祉なのだから運用とか実現可能性とかすっ飛ばして確実に助けるようにすればいいのにとか思ったりもした。
 でも、実現可能性ってとてつもなく大事なことが分かった。たった一人で慈善をするのならばその人だけが寝る間も惜しんで助け続ければいい。しかし、生活保護は市の職員が運用しているわけで、職員一人一人に生活がある。他者を助けつつ自分の生活も維持しないといけないと考えると福祉従事者のワークライフバランスって他の業界よりも難しいと思う。なぜなら、接待という会社や自分のノルマのために義務で働くのではなく、人の命に関わるという慈善のもとに働いているから自分のプライベートを捨てるというよりはもともと自分という軸を持っていないともいえるんじゃないか、、、。 
#働いてみないとわからん

 さすがに不正受給者が全体の2%なことを知ってから不正受給者を何とかしろとは言えないけれど、生活保護になってしまう人が多すぎることには疑問がある。生き方に正しいことなんてないけど、すべてが自己責任というわけでもなさそうだ。でも、生活保護の数はある一定数に収めることは出来るんじゃないかと思う。一定数とは、生まれつき生活に補助の必要な状態である人のほとんどや、突発的にお金を稼ぐことどころか生活に支障をきたしている人だ。生活保護は歴史的に見てもこのような人たちを守るための制度であるから受給者を0にできるとは思っていない。だが、ただ高齢になって年金だけじゃ足りないっていうのは生活保護の対象にするべきではあるけど???ともなる。だって、年取ることって小学生でも知っていることだし、年取って仕事しなくなるだろうなってこともみんな知っていることだから。このような人たちを増やさないようにすることこそ重要なんだと思う。

ここから、過去の記事を読んでるとわかりやすいかも。

この問題は循環していて、教育と仕事がマッチングされないことがネックだと思う。教育の範囲と仕事を探すことが分かれているってことに気づいた僕は一日が充実している。先生は自分とは何かという道徳的なことは教えてくれるけどその先の仕事の斡旋とかは範囲外。大学に入ってから教育がやけに独立していると感じる。行政の縦割りより社会から縦割りされているんじゃないか、、、。お金についての先生はいつになっても親の人は大多数だし、仕事を探すのは自分自身。教えてくれるのは社会のルールよりは集団行動という学校の中に存在するルールといわゆる勉強。こう考えると学校で真面目に勉強していたことに誇りすら感じるかも。

僕には大きな矛盾がある。こんなに上から言っているけど僕は何かを変えようとは思ってないし、これを考えたところで何も始まらないことは知っているから。頭を動かしたっていう時間だけが流れて終わる。
#多分これの時間ももったいない #でも楽しい

社会は矛盾だらけ。これもまた一興。では終わらないでほしい。

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