無視される限界
人間から生まれた、作り出されたものによって人間を救うことはできない。人間は人間にとって義であることはできない。ただ一点の、交わる平行線に服従することのみが、服従という名の自由にたどり着くことだけが、つまり神のヒューマニズム(神我らと共に!)に従うことが、人間を人間にとって義にするするという不可能の可能性に挑ませることができる。
などと言ってみたところで、この言葉が通じる文脈にいる人は限定されるだろう。交わる平行線とはなんだとか、神のヒューマニズムとはなんだとか、神我らと共に!とはなんだろうか、などなどなどの疑問が湧いてくるに違いなく、しかもその疑問は人間として正当(かつ大失投)であると言わざるを得ない。
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「有限である実物資源を確保するために、事実上制限なく発行できるものとしてのマネーを発行することの必要性がわからないのは、なんだかなー」などと宣う発言が散見される。
有限を積み上げれば無限に到達しうる(ルター派)なのか、有限は無限を含まない(カルバン派)なのか、といった論争がキリスト教の組織神学(体系神学と言った方がわかるかもしれないが)にはあるのだが、そしてこれはほとんど立場設定の問題であり、どちらの立場であれば良いかを理論的に決定しうるものではないと思われるが、有限と無限との関係は、何も神学の専売特許ではない。と同時に、実学(ここでいう実学には哲学も文学も含まれる)の範疇として有限と無限の関係を論じることもできる(し論じてきた人間がいたのは歴史的事実だ!)。
「マネーで解決できる問題はひどくなるまえにマネーで解決して仕舞えばいい」などと宣う発言を見ることがある。この発言は奇妙だ。マネーで解決できる問題はマネーで解決せよといっているのであるが、この発言が出てくること自体、マネーで解決できていないことを暴露しているにすぎない。<マネーは誰でも発行することができるが、問題はそれを受け取らせることである>という箴言?を残した経済学者がいるが、マネーを受け取らせるほどのパワーを、この発言(上の鉤括弧で囲まれた発言のこと)を宣うものが持っているとは思えないのだ。別の言い方をしよう。この発言を実行(put into existence)するためには、この発言をしたものが権力を持たねばならないのだ。しかも、その権力は選挙権というものそれ自体ではない!国家の代表的機能である徴税の機能を、税を宣言し、税を回収できるだけの力を持った機能を発現させねばならないのだ!ということは、どうやらこの発言をした人間が国家の中枢を担う覚悟がないうちには、この発言は扇動におわるにすぎないことになる。しかも人間が生み出した国家や貨幣で人間を救うことはできないという事実の中の事実を有耶無耶にしてしまう点で、扇動どころか欺瞞である!
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境界を有耶無耶にするような議論は概ね眉唾物であり、よくて偽善であり悪くて破滅への道である。限界づけるということ、これが説得の鍵である。
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ちなみに、ニュースになっているのかもしれないがとある省庁を解体せよなどという動きがゼロではないらしい。社会が良くも悪くも変わるのは、下層中間層上層という言い方が許されるならば、中間層の影響である。下層ではそもそも自分の問題に必死で社会のことを考える余裕はなく、上層ではそもそも社会から恩恵を受けているので社会を変える必要がない。タチが悪いのは(とあえてこの言葉を使うのは、自分には余裕がないのだ!と他者の面前で平気で宣えるほどの恥知らずであり、しかも余裕があるという現実から目を背けているという点で偽善だからである)中間層なのだ。しかも中間層はそれこそ欲望の方向が大きさもそうであるがバラバラなので、中間層にアピールするということはそれだけ社会が混沌とするということになる。混沌がいいか秩序がいいか、私は知らない。だか、少なくとも言えることは不平不満を他者の面前で言えている時点であなたに余裕があり、しかもその余裕を作っているのも社会の恩恵なのであるということだ。