クライシステオロジー, つまり危機神学 その4

危機神学シリーズが, とっても久しぶりになってしまいましたね. この原因の一つはもっぱら, MMT(現代貨幣理論または現代金融理論)を中心とする修士論文執筆に時間がかかっていることにありまして, すいません. 今回は, https://note.com/headphone/n/n2d4fec666852 に引き続きという形で, カール・バルト『ローマ書講解』(平凡社ライブラリー, 上下冊, 2001年)の読み解きを行ってみましょう.

1 第2版への序文

バルトは, 第1版との違いが決定的であることを次のように述べている.

「第一版への序において, わたしはこの書物を「予備的著作」と呼んだ. この言葉に, あのほとんど悪評高いといわれるほどになった結びの言葉(「この書物は...が来るのを待っている」)に払われたのと同じくらいの注意が向けられているならば, この書物を, 第一版からみれば, この第二版には, いわば石ころ一つも残っていないほどの新しい改訂版として出版しても, 今日特にわたしが弁明する必要はないであろう」(上. 16ページ)

パウロのローマ書を扱っているのにもかかわらず, 第一版と第二版では決定的に違うということはどうして起きるのだろうか. バルトはその理由を4つあげている.

「第一にとりわけ重要なのは, さらに続けてパウロに取り組んだこと. この仕事は, 特にわたしの研究方法によればさらに数編のパウロ文献にしか及びえなかったが, それでも, 一歩進むごとに, ローマ書に新しい光を投げかけてくれた. 第二にはオーヴァーベック. (中略)わたしはかれの警告を, まず最初に自分自身に結びつけてみた. (中略)この全く注目すべき, 珍しく敬虔な男との対決を, わたしはこの『ローマ書講解』第二版において試みたのであるが, それが成功したかどうかの判定を, わたしが受け入れることのできるのは, オーヴァーベックが決定的な仕方で提出した, あの問題の核心に触れる謎(そしてまさしく伝記的, 心理学的な謎というだけでなく)を認め, それを解くために少なくとも努力はしてみたことを証明できた人たちからだけである」(上. 18ページ)

オーヴァーベックという人物紹介はこちら

[生]1837.11.16. ペテルブルグ
[没]1905.6.26. バーゼル
スイスの神学者。ニーチェの親友。イェナ大学私講師を経て,バーゼル大学新約聖書および古代教会史教授 (1870~97) 。終末論的観点からキリスト教をとらえ,キリスト教の特質はその世界否定性にありとした。教会とはキリスト教と無関係な宗教集団であり,教会史は聖書の原歴史からの堕落過程であるとして,教会史を講じた。彼の批判は,K.バルトにより,弁証法的神学のさきがけとみられた。主著に『現代神学のキリスト教性について』 Über die Christlichkeit unserer heutigen Theologie (73) ,『古代教会史研究』 Studien zur Geschichte der alten Kirche (75) ,『キリスト教と文化』 Christentum und Kultur (1919) 。

まず, 第一の点については, すべての学問において, いや, 特に神学において顕著に当てはまることを述べているにすぎない. それは, 読むたびに印象が変わるというものである. 優れた書物, それがいわんや聖書クラスの書物になってくれば, 読み手の知識によってその内容の理解度は平気で変わってきてしまうものである. だからバルトは, 第一版と第二版との違いを強調することで, バルト自身は, ローマ書に書かれた決定的な内容を読み解くことに近づいた, と言いたいのだろう.

第二の理由については, 「神は死んだ」という台詞で有名なニーチェ, その親友であるところのオーヴァーベックから寄せられた, 近代自由主義的神学に対する批判から, バルトが学んでいることを明らかにするものである. 近代自由主義的神学とは簡単に復習すれば, 人間の理性による啓蒙によって神を理解できるとした神学のことである. もっと厳密に言えば, 感情と直観によって神を理解する神学のことで, 神の居場所を人間の心に求める神学のことである.

第三および第四の理由をバルトはこう述べている.

「第三にわたしの弟ハインリッヒ・バルトの諸論文のおかげで学ぶことができたプラトンとカントの思想の本来の方向設定に関するいっそうすぐれた教示と, 新約聖書の理解のためにキルケゴールとドストエフスキーから獲得するべきであったものに対する増大した注意. (中略)第四に, 第一版の引き起こした反響を正確に追跡したこと. それについて付言すれば, 第一版に対する好意的な論評の方が, そうでないものよりわたしの自己批判に役立った. 二, 三の賛辞を読んでわたしは全く驚き, ただちに主題の核心を言い換え, 全力をあげて陣地の転換を行なわざるをえなかったからである」(上. 18-19ページ)

プラトンやカント, キルケゴールやドストエフスキーは, ともに今にも影響を残している思想家であるが, バルトはその知見の一部を弟から学んだと告白している. また, 第一版における好意的な評価の中に, バルトは驚きを感じたという. その驚きとは, 主題の核心(ザッヘ)が全く伝わっていないという驚きである. これがバルトをして第一版とは全く違う内容の第二版を書かしめたと言えるだろう.

ところがバルトは「わたしにとってはるかに重要なのは, 二つの版の共通点についての, 二, 三の根本的な事柄である」(上. 19ページ)と述べ, バルトが一貫して主張したいことが, 版が違ってもあるのだというのである. 第一版と第二版では決定的に違うと, バルト自身が述べていたのにもかかわらず. バルトは結構厄介な表現を使うので, ご注意されたい. 直前に言ったことを直後に否定するということはバルトにとっては, あってはならないことではないからだ.

バルトは真理を語ろうと述べ, 次のような問いかけを行っている.

「われわれにとってパウロのローマ書も, 神学の今日における状況も, 今日の世界情勢も, 神に対する人間の状況も要するに単純ではない. このような状況の中でその人にとって真理が問題となるならば, その人は勇気を奮い起こして, まずいったんは単純ではありえないという状況に立たねばならない. 今日における人間の生は, どの方向においても困難で複雑である. いったい人びとの感謝ということが問題であるべきだというならば, 息ぜわしい偽りの単純さに対して, かれらがわれわれに最後に感謝することになるだろう. しかしわたしが真剣に問題にしたいのは, この「単純さ」を求める叫び声の全体は, 直接的な, 非逆説的な, ただ信じるに足るものであるというだけではない真理を求める願望, すなわち, それ自身としては理解可能な, 大抵の神学者によっても担われている願望とは違ったものを意味しているのではないかということである」(上. 21-22ページ)

ここでは二点, 大切なことが言われている. 第一に, 今日のあらゆる状況が単純ではない時に, その人間にとって真理が問題となるならば, 客観的にではなくて, 主体的に, 自らが単純ではありえないという状況に, 積極的に立つ必要があるということである. この意味は, 客観的ではありえないということである. 真理を掴むという行為そのものが客観的にはなしえないということを言いたいのである. 第二に, それでもなお「単純さ」を求める声があることに対し, その一部ではなく, その全体は, 信じれば良いとして認識するには不十分である真理を求める声に他ならないことのではないか, ということである. この二つの見解は矛盾しているように見えるだろう. しかし, 矛盾はしていない. 単純さを欲したいと思いながらも, 単純さを求めるだけでは真理に到達することはできないことを認める人間にとっては, 矛盾ではないのだから.

また, バルトは聖書を文献学的に研究するものに対して次のように述べている.

「わたしが非難の声を上げたいのは, 解釈とは言えないような, むしろ解釈の最初の初歩的な試みでしかないような本文の解釈に留まって一歩も先へ進もうとしない態度である. すなわち, ギリシア語の言葉と語句を, それと対応するドイツ語の言葉と語句に移しかえ, 書きなおし, そのようにして得られた結果を文献学的・考古学的に解釈し, 個々のものを歴史的・心理学的実用主義にかなうように, 多少とも納得できるような仕方でまとめ上げることによって, 「そこにどう書いてあるのか」を確定しようとする態度に留まって一歩も先へ進もうとしない態度である」(上. 23ページ)

この非難の声は聖書に限らず, いわゆる古典として分類される書物には頻出する問題であろう. 解釈学に留まっていることをバルトは非難していることがわけである. しかし, 先へ進むということは決して, テキストから離れて自己勝手なことを, 自分勝手の観念を述べることであってはならない. バルトはその意識を次のように表現する.

「批判するとは, 歴史的文書に対して用いられるとき, わたしには次のことを意味する. その文書に含まれているすべての言葉と語句を, すべてが欺くのでなければ, その文書が明らかに語っている主題の核心に即して判定すること, その文書の中に与えられているすべての答えを, それらの答えと誤解の余地がないほど対立する問いにまで, すなわち, これらの問いをすべての問いを内に含んでいる一つの基本的な問いにまでさかのぼって重ねて関係づけること, その文書が語っているすべてのことを, 語られうる, それゆえにまた実際ただ一つ語られうる事柄の光の下で解釈することである. (中略)それらの言葉の中にある単語に対する, もろもろの言葉の関係を, できるだけ立ち入って明らかにするよう努めなければならない. わたしがほとんどわずかに事柄の謎の前に立ち, その文書そのものの謎はもはや問題ではなくなる地点まで, したがってわたしが著者ではないことをほとんど忘れてしまう地点まで, わたしが著者をよく理解して, かれをわたしの名で語らせ, わたし自身がかれの名で語りうるようになるほどの地点まで, 理解しようとする者であるかぎり, わたしは突進しなければならない」(上. 27-28ページ)

これはバルトの弁証法を表現しているという意味においても, テクストを読む上での一般的な注意という意味においても重要である. バルトの弁証法の重要な点は, 主題の核心に即してすべての言葉や語句に対して判定を加えていくことにある. 具体的には, ほとんどギリギリにまで抽象した一つの問いにまで遡りながら, テクストに書かれている答えを, それと対立するような問いと関連づけるというものである. 大切なのは, テクストを読む人間の問題関心に合わせてテクストを読んでいくのではなくて, テクストにある主題の核心(ザッヘ)に即してすべての言葉と語句を読んでいくという姿勢である. これをバルトは, テクストの著者を忘れさせるくらいにまで, 著者とわたしが同化するところまで突進するという形で表現しているのである. 実際にこれができる人はほとんどいないのであり, 言わんやその相手が聖書ともなれば, すべての人間においてこれは完璧に仕切る事は不可能であることを認めるべきだろう.

バルトがパウロのローマ書を読む姿勢は大体伝わったと思われるので, 今度はバルトが自分の著作の内容をどう評価しているかを聞いてみよう. バルトは次のように述べている.

「わたしのこの『ローマ書講解』の内容に関して言えば, 三年前も今もわたしにとっては, いわゆる福音の全体よりもむしろ真の福音が問題であったことを告白する. なぜなら, 真の福音の把握に通じる道以外に福音の全体に至る道はないとわたしは考えるからである. もっとも, その真の福音は, まだだれに対しても同時に全面的に姿を現わしたことはないのであるが」(上. 34-35ページ)

この引用における三年前という意味は, 第一版が第二版の三年前に刊行されたという意味である. そしてこの引用では, 内容を語っていると思いきや, いや内容を語ってはいるのであるが, むしろ方法を述べているとも読めるのである. 福音の全体よりも真の福音を問題とするという姿勢は, バルトが歴史的文書を批判すると述べた姿勢と同型である. つまり, 福音というものが初めからあって, それらを分析する事で福音の全体像を明らかにしようとするのではなくて, そもそも福音とは何かという問いを, テクストの中に求め, テクストの中にその答えを見出そうとする姿勢である.

この姿勢をローマ書の講解に用いる事は有効であろう. その理由はパウロが常に異端との交流をし続けていたという事実にある. つまり, パウロは福音というものが初めからあることを共有しているものとの会話などしておらず, そもそも福音とは何かから話す必要のある人との交流を行なっていたという事実である.

2 『ローマ書講解』を読む上での注意

バルトは自信満々に次のように述べている.

「ある書評家たちに, もし許されるならば, 次のことを注意するよう特に勧めたい. この書物について, 急いで安易に, 有頂天になったり, 不機嫌になったりして何かを書くことは, 今度は, 前よりもはるかに危険であると. またかれらに忠告したいのだが, この書について然りあるいは否を答えることが何を意味するか, しかしまた, この書について親切にも, 然りと否の混合した答えをすることが何を意味するかをよく考えてみるべきである」(上. 39ページ)

バルトは, バルトがパウロのローマ書を批判したのとおんなじやり方で, 自らのローマ書講解が批判されることを望んでいるということが, この引用から読み取れるだろうか. つまり, あらかじめローマ書講解のモチーフを, あるいは全体像を予想して読むのではなくて, そこに書かれているすべての言葉と語句とを, そこに書かれている主題の核心に即した形で判定していくこと, もっと言えば, 客観的にではなく主体的に読むことを, バルトは望んでいるのだろう.



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