自分色の世界
B'zの、世界はあなたの色になる、を久しぶりに聴いてみた。やっぱりすげぇな、稲葉さんは。何かある時は、いつも気付かせてくれる。そう、僕達は自分の色になることが本来の姿だ。だが、いつしか他人の機体に応えようとして、他人が喜ぶ自分になろうとして、他人の顔色を伺って、他人の色になろうとしてしまう。それも分かるのは、分かる。僕達は、他人との関わりの中で社会性を身につけるからだ。
しかし、他人の色に染まろうとすると、いつか限界がくる。たぶん、その人の顔色は、冴えない。自分の顔色が一番冴えている瞬間というのは、自分の色に染まっている時だ。それは、外的なものではなく、自分の内から滲み出てくるものなのだ。
源さんは、この世を遊ぶことを詞にした。稲葉さんは、世界を自分の色にすることを詞にした。形容こそ違えど、本質的には同じことを述べている。遊ぶ時に他人の顔色を伺って、遊ぶことはしないだろう。自分の好きなテレビゲームをする。自分の好きな場所に行く。そこに他人が介在する余地はない。
生きるとは、遊びであり、遊びとは、自分の色にすることである。
なるほど、だから源さんの創造のミュージックビデオは、色をふんだんに使っているのかもしれない。
自分の色にするには、自分が自然と笑顔になれる方向に進めばよい。それが色の決定である。その時に他人の顔を思い浮かべるのではなく、
自分で自分の顔色を見てやる。おぉ、いい顔してんなぁ、と思えばそれが正解だ。鏡の前に立って冴えない顔をしていれば、恐らく他人の色になろうとしている時だ。そこに自分で気付いてやって、自分で修正していく。色は幾度も塗り替えられる、幾度も作れる。まっさらにだってできる。源さんのSUNを引用するならば、
全ては思い通り。
なのだ。
僕が笑顔になれるのは、エアラインパイロットなれた瞬間を想像した時だ。他人がいなくても、自分一人でも笑顔になれる。ならば、その色にして行こう。
世界を自分の色にして行こう。