夏が終わる (28/40)
二十歳のころは夏の終わりに、なにも感じていなかった。むしろ、あつい夏が終わることは歓迎だったかもしれない。ある程度すきなことをやって、夏の終わりは退屈していたような気もする。
四十歳のいま、夏の終わりは、さみしい。
二十歳のころに感じてなかったこのきもちは、歳を重ねるごとに増してきている。
どうして、夏の終わりはさみしいんだろう?
夏が好き説
そう言えば、海で釣りをしたり、あそんだりするようになったのは、社会人になってからのことだ。海水浴も家族ができてから行くようになった。
どちらかと言えば、海はきらいな方だった。沖縄の離島に行ったときも海に入らなかったくらいだから、興味がなかったとも言える。
学生時代は海がすぐそこにあったのにもったいないと思うしかないけど、目の前にあるときはなんとも思わず、遠いところにあるから恋い焦がれるみたいなことはあるのかもしれない。
いずれにしても、二十歳と四十歳のじぶんをくらべると、海が好きになった。
そんな好きな海を満喫できる季節が終わるのはさみしい、とてもわかりやすい説だと思う。
だけど、夏の終わりのさみしさは、好きなものが楽しめなくなるからだけはない。
時間は有限説
赤ちゃんも、二十歳も、四十歳も、いまという時間はひとしくある。
だけど、大人になるにつれて時間がなくなっていくのはなぜだろう。灰色の男たちに時間を奪われているんじゃないかと、本気でおもってしまうくらいに。
一日24時間、一週間7日間、一年52週間はみんなひとしいのに、学生と社会人の、たとえばある夏の日の休日の価値は、全然ちがう。
学生のときは、きのうもあしたも来週もある休みで、休みはバーゲンセールのようにあった。
だけど社会人になったら、きのうはなくて、あしたもなくていましかないくらいの高級品になっている。
むかしよりもいまの方が、なぜか高い代償を支払わないと会えない彼女になってしまったということになる。
好きな彼女が遠のいていくことがわかっていながら、会うのには相応の代償が必要になるとなれば、一度でも会えばさみしさは募るしかない。
だけど、それだけが理由だったら、夏以外のものにもおなじ感情をいだいているはずということになる。
人生の夏が終わる説
四十歳はミッドライフとも言われるそうだ。
人生80年だとしたら、そのど真ん中の年齢ということになる。
そして、ミッドライフに「クライシス」という言葉がつづき、日本語に訳せば中年の「危機」。「ミッドライフクライシス」はかっこいい感じなのに、「中年の危機」はなんともダサい。
また、思春期との対比のなかで、思秋期とも言われるのが中年みたいだ。
人生80年を四季におきかえてみると、生まれてから二十歳までが春の時期、そこから四十歳までが夏、そして次には秋と冬が控えているということになる。
あしたのことなんて誰にもわからないし、80歳まで生きる保証なんてどこにもないから、ミッドライフも四季もアテにはならない。
だけど、いまのところミッドライフ(人生の真ん中)な気分でいることは確かだ。
だから、毎年めぐる四季とはちがい、いっかいきりの人生の夏が終わっていくさみしさがあるのかもしれない説にいきついてしまった。
だけど、なんだか腑に落ちない。
夏が終わるけど‥‥
あれこれ書いても、なんだか腑に落ちないのは、じぶん自身に納得できてないからだ。
夏から秋に季節がめぐることを、わたしがどうこうできるものではない。
だけど、そのほかの高級品の夏休みや、人生の夏の終わりなんかは、じぶんが勝手にそう決めこんでいるだけということになる。
夏が終わることにさみしさを募らせるのは、桜が散る的な風情がひそんでいるような気がしてきた。
終わりに焦点をあてるよりも、また夏がくることを想えた方が、なんだかハッピーな気がする。
夏が終わる。じゃなくて、また夏がくる。
さみしいさみしいと書いていたけど、たのしみなきもちで書き終えることにしよう。