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ボチボチええんとちゃうやろか

新年早々の記事の話題にふさわしいか。

そう問われたならばNoだと思うが、
でもそんなの関係ねぇ。

Ocean pacific peace(オッパッピー)を願いながら
私は自分が書きたい記事を書く。

Wow, This is my life.

そんな正月に合わない話題とは何かというと、
「墓」についてである。

昨日は大晦日だったので
妻の家のお墓参りに行った。

我が家からは車で10分ほどの距離にあり
行きやすいので、
お盆や正月の際には参るようにしている。

いつもの様にお墓参りセットをもって
お墓に水をかけたりしていると
妻が「パパはお墓のことどう考えてるの?」と
私に突然問いかけた。

私は以前からお墓というものに対して
ずっと懐疑的な見方をしており、
正直自分が死んだ後にはお墓など
全く要らないと思っている。

では遺骨をどうするのかという問題になるが
私としてはできれば散骨などして
子供たちの手元に余計なものを残したくないと
ずっと思ってきた。

そのことを妻に応えると、
妻は「じゃあ、私はどこに入ったらいいんよ」と
怒り始めてしまった。

この手の話題になるとこういう流れになるので
避けてきたつもりだったのだが、
私としても自分の気持ちは曲げられない。

お墓を作ってしまうと、少なくともお墓参りや
手入れをするという理由が生まれ、
子供たちをその土地に縛り付けてしまうことになる。

たかだか年に数回の話だと言えばそこまでだが、
私は子供たちには自由に生きてほしいと思うので
お墓などに縛られて欲しくないのだ。

そのように私は妻に言うのだが、
妻はそんな私の考え方が理解できないらしい。

妻にどう説明すればいいだろうか、
そう考えながら話をしていると
私の中に一つの疑問が浮かんできた。

そもそもお墓とは一体なにだろうか。

形式的な話をするならば
お骨を収納しておくところになるだろう。

では、仮に人が亡くなった後に霊となるとすれば
霊はお骨もしくは墓石に宿るのだろうか。

それは違うはずである。

肉体に魂が宿らないからこそ、
人は無くなった後に火葬するわけであるし、
墓石に魂が宿るのならばお盆や〇回忌の法要は
本来お墓でするはずだからである。

しかし、実際に法要をする際には
仏壇に向かってすることがほとんどである。

ではお墓とは一体何のためにあるのか。

お墓が霊にとっての家とするならば、
この世界はお墓まみれにならなくては
つじつまが合わない。

考えていくと、お墓は色々な矛盾を
抱えているものなのだ。

そもそもではあるが、私は人が亡くなっても
霊にはならないと考えている。

色んな人の記憶の中にその人の人格や言葉は
残り続けるものであり、
霊として何かしらのエネルギーを持った
何かになることはありえないと思うのだ。

もし人が亡くなって霊になるならば
どんどん人は亡くなり続けるので
霊界は霊であふれかえってしまうであろう。

こんなことを言うと、
とてもドライな人の様に思われるかもしれないが、
私自身お墓参りは毎年必ずしているし
お墓を立てたり参ったりする人のことを
批判しているわけではない。

親として子供たちに自分が信じられないものを
引き継ぎたくないだけなのである。

今のところ妻はお墓を持つべき派のようだが、
昨日の議論で少しではあるが
お墓というものに疑問を感じるようになったらしい。

まだまだ時間はかかりそうな議論を
今年も地道に続けて結論に至りたいと思う。

あなたはお墓にについてどのように考えているだろうか。

あなたの考えを参考にしたいので
もしよければコメント欄で教えて頂けると
とても嬉しい。

ちなみにお墓参りをしていると
娘が他のお墓を見て、
「なんでお墓には大きいのと小さいのがあるの?」
と聞いてきた。

お墓=霊の家と考えるならば
家の大きさの違いと同じだと説明できなくもないが、
そうすると私の考え方に矛盾してしまう。

非常に現実的な答えをするならば
人の見栄や石材店のビジネス臭がプンプン漂ってしまうので
それも教えにくい。

「お墓に入ってはる人が大きいのがいいか
小さいのがいいか生きてるときに選んではったんやで」
とお茶を濁してしまったのはここだけの話である。

新年早々この話もボチボチええわな。
墓地だけに。

今年もよろしくお願いします。





皆さんはお墓についてどう考えているだろうか。


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