四国八十八ケ寺の36番から38番(高知)の札所参り
四国八十八ケ寺の36番から38番(高知)の札所参り
2021-3-10(水)11(木)は快晴で家内の運転で息子と3人で
四国八十八ケ寺の33番から38番の札所を回って来ました。
今回は36番 青龍寺と37番 岩本寺と38番 金剛福寺の記録です。
下の画像は宿泊した足摺岬の近くの「ホテル足摺園」です。
下の画像は四国88カ所36番青龍寺・37番岩本寺・38番金剛福寺です。
36番 青龍寺
青龍寺の歴史・由来
青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。
昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。
弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の
秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年であった。
縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、
東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと
祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。
帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの
奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇に奏上した。
大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、
寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った
「独鈷」を名のっている。
明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹で
あった。また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮め
るために現れたと伝えられ、いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも
鎮めてくれると、深く信仰されている。
青龍寺の見どころ
愛染明王坐・奥の院・横浪県立自然公園
(北側は浦ノ内湾、南には雄大な太平洋の景観を楽しめる公園。)
37番 岩本寺
大師堂・本堂内陣の格天井画
岩本寺の歴史・由来
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、
五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。
寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を
祈念して、現在地より北西約3㎞の付近にある仁井田明神の傍に建立した
と伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。
仁井田明神の別当職であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた
仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、
観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として
安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。
このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神
は仁井田五社と呼ばれていた。天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退して
しまう。再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺
に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。
戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の
札所として隆盛を誇っていた。明治になると神仏分離の政策で仁井田五社
と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、
それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。
再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し
現在に至っている。
38番 金剛福寺
金剛福寺の歴史・由来
四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は
120,000平方メートルを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる
太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。
ときの嵯峨天皇に奏上、勅願により伽藍を建立、勅額「補陀洛東門」を
受し、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。
岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの
浄土を連想させ、自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり
着く遍路の旅もまた壮絶を極める。前の三十七番札所から80余km、いま
は車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、
四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。
縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに 三面千手観世音像を
彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。
「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたと
され、別名、金剛杵ともいう。 また、「福」は『観音経』の
「福聚海無量」に由来している。歴代天皇の勅願所となり、武将からも
尊崇された。とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、
その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。
金剛福寺の見どころ
本尊・三面千手観世音立像・土佐五色石の庭園・真念庵・嵯峨天皇宸筆の
勅額 (「補陀洛東門」と彫られた木額。嵯峨天皇は弘法大師、橘逸勢と
ともに平安初期の能筆家「三筆」の1人。)