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四国八十八ケ寺の54番から56番の札所に行って来ました。(2021-11-21 後半分)

四国八十八ケ寺の54番から56番の札所に行って来ました。(2021-11-21 後半分)

2021-12-04 | お出かけ

2021/11/21の朝早くに出発して午前中に宿毛市の四国八十八ケ寺の39番から43番の札所にお参りして、午後からは今治市の54番から56番の札所にお参りして夜遅くに帰宅しました。

下の地図は11/21に行った四国八十八ケ寺の39番から56番の札所です。
39番の延光寺がある宿毛市の小さな喫茶店でモーニングを食べました。
40番の観自在寺と41番の龍光寺と42番の仏木寺と43番の明石寺に
お参りしてから宇和島市の喫茶店で昼食にしました。

近くの道の駅に寄ってから 今治市にある54番の観自在寺と55番の龍光寺と56番の仏木寺にお参りしてから 夕食を豊浜SAで食べて帰宅しました。

39番~56番札所

 下の画像は四国88カ所 54番延命寺・55番南光坊・56番泰山寺です。

54番~56番札所            

  下の画像は四国88カ所 第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺です。        

延命寺
延命寺
延命寺  
延命寺 
延命寺

延命寺の歴史・由来
 今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、
 延命寺の山号にもなっている 近見山という標高244mの山がある。
 この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが
 延命寺であったと伝えられる。
 縁起によると、養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の
 化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。
 弘仁年間になって、弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問
 の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。
 この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・
 圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた
 「延命寺」に改めている。

 その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、
 享保12年に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。
 この間、鎌倉時代の文永5年、華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に
 籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。
 「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と
 新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。
 寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、
 境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど
 可憐な白い花をつけている。

延命寺の見どころ
 山門・火伏せ不動尊・越智孫兵衛の墓(阿方の庄屋であった越智孫兵衛
 は、農民の窮乏を救い、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと
 伝えられる。)
   

延命寺      
仁王像         
延命寺

   下の画像は四国88カ所 第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊です。        

                           南光坊        
南光坊
南光坊   
南光坊
大通智勝如来
川村驥山の菅笠

南光坊の歴史・由来
 四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。
 正式には光明寺金剛院南光坊という。
 今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の
   大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
 推古天皇御代二年甲寅(594)に勅により大三島に造立されて
 其の後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、
 大宝三年 風波のため祭祀が おろそかになるのを憂いて当地に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した。
 弘法大師は四国巡錫の時別館参拝し、坊で御法楽をあげられて
 四国霊場第五十五番札所と定めた

 のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごと
 く焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。
 慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、
 
 さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として
 社殿に奉安していた大通智勝如来と 脇侍の弥勒菩薩像、
 観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。

 太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を
 残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、
 山門は同10年に再建されている。

南光坊の見どころ
 大通智勝如来・川村驥山の菅笠・金比羅堂
(讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る堂。)
      

         南光坊         
南光坊   
      南光坊      
南光坊

  下の画像は四国88カ所 第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺です。      

泰山寺
泰山寺
泰山寺   
本堂
不忘の松

泰山寺の歴史・由来
 泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く
 残っている。 弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ
 蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると
 氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、
 村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。
 この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、
 「土砂加持」の秘法を七座にわたり 修法したところ、満願の日に
 延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

 大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像
 を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。
 この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと
 伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる
 泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。

 寺はその後、淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、
 塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。
 だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が
 麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと
 伝えられている。 泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時
 代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然が誕生した地とされている。
 

泰山寺 
泰山寺            
泰山寺   
泰山寺        
泰山寺


 2021/11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の札所にお参りして、
「駒季」というお店で昼食にしました。
 私はうなぎ丼 家内は刺し身定食でした。

 朝食は 小松島市のコメダコーヒーでモーニングにしました。
 
 室戸市のランチで調べると金目鯛のどんぶりが人気でしたが
 予約ができませんでした。

昼食

2021/11/20の午前中に室戸市の24番から26番の札所にお参りして、午後からは香南市・南国市の25番から29番の札所にお参りしてから宿毛市のホテルに
泊まりました。ホテルで聞いた近くのお店で夕食にしました。
カツオのたたきは一人前しかありませんでした。
若い人が多くて賑やかでした。

夕食

2021/11/21の39番の延光寺がある宿毛市の小さな喫茶店でモーニングを
食べました。

40番の観自在寺と41番の龍光寺と42番の仏木寺と43番の明石寺
にお参りしてから宇和島市の喫茶店で昼食にしました。
お店のお勧めランチ ミニハンバーグを食べましたが 美味しかったです。
今治市の三か寺を回ってから夕食は
香川県に入って豊浜SAでステーキ定食を食べました。

昼食夕食

下の画像は2021/11/20の夕食後に 行った宿毛市のリゾート温泉です。
夜は9時まででしたが 良かったです。
ロビーに宿毛市の観光地や偉人のパネルがありました。
2021/11/21の昼食後に今治市に向かう前に
道の駅に寄って少し買い物をしました。
宇和島市の三間町にたくさん咲いていてきれいでした。

温泉と道の駅とコスモス

       

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