創業から現在に至る、100年の物語。
2022年8月、社名を株式会社HBUに変更しました。今回は僕の家業について創業から現在に至る約100年に及ぶ物語を、少しご紹介させてください。
はじまりは、大正15年創業の眼鏡屋から
1869年(明治2年)に明治政府が開拓使を設置したのが、近代札幌の始まりでそう考えると150年余りの歴史しかない街なのですが、そんな札幌の成り立ちとほぼ時を同じくして誕生したのが、今僕が手がけている再開発の舞台でもある札幌最古の商店街 “狸小路商店街” です。
僕の曽祖父にあたる増永高士が大正時代に福井県から北海道に入植し、今から96年前の1926年(大正15年)に狸小路2丁目で眼鏡店を開業したのが、僕の一族と札幌、そして狸小路との出会いです。
昭和13年発行の「札幌狸小路発展史」によると、昭和2年2月に開かれた五丁目会の総会で役員に新たに選任されたとの記載があることから、正確なことはわかりませんが、どうやら昭和に入ってすぐ、現在の狸小路5丁目に居を移しているようです。大正天皇の崩御は1926年(大正15年)12月25日で、昭和元年は実質1926年の最後の1週間だけだったことを考えると、2丁目にいたのはほんの1年足らずだったのかもしれません。大正時代の狸小路5丁目といえば当時の狸小路としては場末という扱いだったようですが、曽祖父が移ってきた昭和2年には道路も舗装され、鈴蘭灯が建設された狸小路にとって記念すべき年だったそうです。
この鈴蘭灯は狸小路ではもちろん、北海道においても最初のものであったようで、当時の五丁目会の記録を見ると次のような事が記載されています。
商店街としての体裁から考えると、1丁目から4丁目の方が立派だったわけでして、5丁目が他を差し置いて鈴蘭灯の建設を成し遂げたのは、当時の5丁目には町内に時代感覚の優れた人が揃っていたことを物語っているのではないでしょうか。そんなエピソードを知れば知るほど、ひいおじいちゃんも、そんな時代の流れに上手く乗っていた人の一人なんじゃないかと思えて、何だかとても誇らしい気持ちです。
第二創業期
それから約50年間は眼鏡屋を営んでいたものの、火事でお店が全焼したことをきっかけに、僕の祖父である増永耕三が、1977年(昭和52年)に周りの地権者を巻き込んで、不動産賃貸業を営むことを目的として設立した会社がHBUの元となる“株式会社狸小路五丁目センター(のちの、株式会社ファイブスター札幌)”です。
1979年(昭和54年)、アソヅヤ眼鏡店の跡地に竣工した狸小路五丁目センタービルは、同年より日本中央競馬会(JRA)と賃貸借契約を結び、場外勝馬投票券発売所(通称、WINS札幌B館)として営業を続けてきましたが、JRAとの賃貸契約の終了によって、2021年6月末をもって42年間の歴史に幕を閉じ、ビルの建て替えを伴う再開発を現在進めています。
第三創業期へ
こうやって振り返ってみると、奇しくも50年周期で新たなことにチャレンジしてきた先代たちの、この地に対する思いを絶やすことはできないし、この時代に、このタイミングで次の50年を考える機会が自分に回ってきたことは、なにか運命的なものを感じずにはいられません。
そんなとっても重要なタイミングで僕は社名を変更することにしました。
HBUという社名に込めた思いは、また別の機会にお話しできたらと思います。
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