闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(10)
4 京都:芸術の実験、実験の芸術 (承前)
---------------------------------------------
オンラインで発行された入場券を館内の受付に提示し、QRコードとやらを読み取られて、晴れてイーノ展館内を歩き回ることができた。
展示館内に足を踏み入れた上原の第一印象は「なんだか大学の学園祭っぽいな」であった。
元々銀行の建造物であるらしい建物は、そこまで広くはないように思えた。
壁や階段が薄紫色の板で目隠しされ、覆われている。銀行のホールは日常的な常識的装いを音響美術空間に変えようとしていた。イーノの音響は澄んだような重い何重もの音色で確かに入口付近にも聞こえていた。
照明は極限まで絞られ、音楽から色彩に転用したアンビエント調の間接照明が細い階段の段一つ一つに落ちている。
雰囲気は大学の学園祭、もしくは地下奥のライブ会場、と上原は思った。
恐らく銀行的な何かが掲示されていたのであろう場所には薄紫色で統一された薄板が張られている。
暗い階段を地下に降りていく類のライブ会場も、このような狭い階段を使うことが多い気がする。
「まずは三階にお上がりいただいて、そこからご覧ください。お手洗いは男性用が三階、女性用が一階にございます」
受付の女性は親切に案内してくれた。
上原は一家の先陣を切って、紫の細階段を悠然と、余裕を持って上っているつもりだったが、内心は、後ろに付いてくる彼の子供以上に落ち着きがなかった。
二階の通路壁には盆栽が三鉢、唐突な形で申し訳のように置かれている。
これはイーノが飾ったのだろうか。暫し目を留めるが、目的地はまず最上階であった。
「あちらからどうぞ」通路に立つ案内役の男性が手で示した。
先にあるのは「The Ship」という作品展示部屋のようだった。
靴を脱ぎ、勇み足で黒カーテンの奥に入った。
脱いだ靴は座敷の居酒屋か、幼稚園の教室に臨時で入るときのような拵えの靴箱に入れる形であった。
展示室内部は寺山修司やJ・A・シーザー劇団さながらの完全暗転空間だった。目が何も見えない。
夏の白昼から館内の薄暗闇に入り、目は多少は闇に慣れていたとはいえ、重い黒カーテンの中は、無重力の宇宙空間めいた、完全暗黒の闇であった。
暗くて何も見えない。
冷房が快適に効いている。
展示室前にいる案内役の男性から入室前に聞いたことを思い出した。「座るソファが満席かもしれませんが、ご自由に立ってご覧ください」
目が暗闇に慣れるまで時間が掛かりそうだ。部屋内に、天井まで届くような面長のスピーカーが置かれている。壁には動いているのか、動いていないのか、白い磨り硝子に映った影絵のようなものが見える気がする。
『The Ship』というのはイーノが2016年に発表したアルバムで、上原は勿論それを発表直後直ちに聴いたが、あまり好みではなかった。
イーノがベルベットアンダーグラウンドの曲をカバーをしたらしいと知ったので、かつてイーノが制作した「white light / white heat」の楽曲を遂に聴けるのかと思ったが、そうではないので落胆したことを覚えている。
展示室前の男性は「ご自由にご覧ください」と言ったが、これは全く自由には歩けない。明るい場所から急に闇の中に放り込まれたら、歩を進めることもできず、周囲には人の気配もあり、不用意に歩けば人や物に衝突して転んでしまうような気もした。
上原は完全暗転の暗黒空間は、恐怖と共に妙な郷愁に包まれるので、嫌いではなかった。完全な闇の中にいると、生きているのか死んでいるのか分からなくなるようなこともある。完全孤独の真暗な闇に全てが溶解すると、意識だけの存在になった気がする。生きているのか、死んでいるのか、全ては幻ではなかろうか。完全暗転は瞬間的に、仮の「死」を体験できる。肉体が消えてなくなってしまう。
しかし、子供たちはどうであろうか。彼らにとっては真暗な場所は一種のお化け屋敷、見世物小屋に近い、異質な宇宙空間かもしれない。
近藤等則は、何故、「闇」という時は「門」に「光」や「色」ではなく、「音」を閉じ込めたのか、ということについて書いていた。
闇、であれば目が見えず、光や形、色が失われるのだから、「門」に光、であるはずなのに、昔の人は、「門」に音、で闇、とした。
生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
その話の際には、弘法大師空海の歌を近藤氏は引用するのが常だった。
暗転した闇の中にソファが幾つか置かれている。また幾つものスピーカーが全方位を向いて配置されてもいるようだった。
闇の中に薄暮のような光が沈んでいる。イーノの「The Ship」音楽が高解像度の立体音響で部屋中に響いている。
部屋の中央にはソファが置かれ、禅僧かヨガ行者のようなポーズをした観客が大きく胡座をかいて座っている。部屋は鑑賞者で混雑していた。恋人同士らしい男女が手を繋いでソファに腰掛けている。
暗闇にようやく目が慣れてきた。
上原はしかし『The Ship』アルバムに収録された、同名の曲をあまり深く聴いてはいなかった。
数回聴いて、どうにも自分には合わないと聴くのを止めてしまっていた。
壁に埋め込まれたような薄暮の光は何処かから投射されているのだろうか、それとも壁自体が発光しているのだろうか。
部屋全体が沈没していく船なのだ、と空想してみようとしたが、ソファや部屋中にいる(自分も含めて)鑑賞者で混み合っているので、悲劇的な空想をその場で幻視することは不可能だった。
近くに誰かがいれば、その人物の存在を意識するし、また、今まで意識していなかった自分自身の姿をも(彼の視点から)妙に意識するようになってしまう。誰しも少なからずそうなのかもしれないが、自意識過剰気味の上原には他者が多い閉鎖空間は居心地があまり心地良くはなかった。
しばらくその場に立っていたが、もう充分かと思った。ソファにも座ったが、前席や隣席の人々と目は合ってしまうし、視線の遣り場に困った。
これが芸術空間というものだろうか。上原は妻と子を暗闇の中で探し、目を凝らして周囲を見回し、ようやくどうにか彼らを見つけた。ピーナッツ型のようなソファの隅に三人は並んで座っていた。
彼らはこの闇の中で、一体何を思うのだろうか。早く帰りたいと思っているだろうか。
小声で囁くのも憚られ、身振り手振りで、部屋の外を指差し「もう出よう」と彼らに伝えた。
トイレに行くから下の階で展示を見ながらでも待っていてほしい、と家族に伝え、上原は手洗いの戸を開けた。
それは昭和時代に建てられた公民館などでまだ目にする形の、手で押せばすぐに向こう側に開く古い様式の扉だった。
ドアはやはり薄紫の色で学園祭方式で覆われている。しかしその内部は、昭和時代そのままの、床は楕円の水玉タイル張りで、旧式の男性用小陶器が四つほど並ぶ、どこにでもあるような厠ではあった。
イーノ展の入場券が販売されているホームページでは「The Lighthouse」という作品紹介の項目があり、日本初公開の音響が会場内の通路や階段、厠内でも鳴り響くことになっていると記されていた。
上原はそれを知った上で、化粧室に入ったのだが、そこは会場の展示演出内で最も彼が衝撃を受けた場所となった。