闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(6)
4 京都前:宗教と美とマスコミ(承前)
上原は感覚的で官能的なイーノの色彩音響に惹かれていた。イーノのインタビューや文章なども目にすることはあり、それらも読むことはあった。しかし、上原にとってイーノ体験で最も重要なのは、音による一種の超伝導であった。それは言葉には表せぬ音響思考であり、言葉を超えた、非言語、未言語、超言語空間で、そこを伝い広がる色彩音響に浸ることであった。
温泉の湯上がりに気分が清々とするような一瞬がある。イーノの音楽を聴くのは、久しぶりに温泉に行くのに似た感じかもしれない。
気落ちした気分を、少しは晴らすような、美しい景色を目にするような、良く眠れた寝覚めの良い朝のような、そのような気分を一時でももたらす作用を、上原はどうにか求めていた。それは、大仰ながら、地の底から、汚濁と屈辱と慚愧ばかりの自分自身の汚穢に満ちた心魂から、日替わりでの浄化と燭光を、上原はイーノサウンドに求めていたのであった。
音楽の再生ボタンを押せば透明な空間が周囲に現出する。それは目に見えない温泉空間のようでもあるのだった。
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イーノの音楽はスピーカー経由で耳に届くが、しかし、視覚芸術はテレビを転がしてブラウン管で見たり、パソコンのモニタ画面で閲覧しているだけでは駄目なのではなかろうか。
上原はイーノ自身が設置監督した視覚音響空間をまだ完全には体験したことがなかった。
教会に行ったことはないが、信仰心を持つ者と、教会に通ってはいるが信仰心は形だけの者。
そもそも美術や芸術などは、いかにもステータスの表層的なひけらかしのようにも思えてしまうことがあり、そう思えてしまうときには上原は冷笑的で懐疑的な気分に落ち込んだ。自身、免罪符を追い求め、それを手にし、保持していることに安寧を感じるような、自己嫌悪に満ちた反感情で息が詰まりそうになることもあった。
高額な芸術絵画を購入し、それを地下倉庫や貸金庫の奥深くに保有することにどんな意味があるのか。
名も知らぬ作者の絵をチラシの裏で見かけ、美しいと思ったその絵を家の壁に貼る、という、取るに足らぬような行為と、それはどんな違いがあるのだろう。
社会的な絵画は高額な投資や貯蓄に使用されるかもしれない。個人的な絵画は個人的な内的精神をささやかに支えるかもしれない。
芸術が展示されている美術館など、なくても良いのではないか、と上原は思うこともあった。
教会がなくても、神社や寺院がなくても信仰心は持てるように、美術館がなくても近所の公園や空き地やそこらの通路など、どこでも至る所に美は存在している。
わざわざ美術館に行って、気取りまくったような雰囲気の、妙に取り澄ましたような偉そうな芸術作品など、見なくてもよいのではなかろうか。
雑草や、どこにでもある街路樹の葉影が誰に見られるでもなく、盛夏の真昼、国道のアスファルトに無音で揺れている様子など、それだけで、美術館内の芸術絵画作品に匹敵するような景色ではなかろうか。
では、イーノ展になど、わざわざ遠方の京都にまで行かなくても良い、ということになるだろうか。
上原はしかし、どうしてもイーノ美術と音響の、我が身を包み込む空間、というものが気になった。
外国ではなく日本で、英国人の実験音楽芸術者の大規模個展が行われているのであった。
上原の住む神奈川県から西へ約四五〇キロ離れた場所にある京都で、今まさにそれは開催されている。
上原は暫し黙考し、やはりどうしてもそこへ行きたいと思った。これは芸術ステータスを感じるための遠路ではない。京都までは車で約六時間程の距離だった。
京都は学生期に住んでいたし、久しぶりに遊びに行きたい気も確かにする。
上原は家人を説得し、京都に行くことを決めた。目標はイーノ展だが、家人らは京都観光が目下の楽しみのようだった。
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