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フランス語と僕 Ⅴ. 挫

全てがあまりにうまく行きすぎていた。

語学学校での授業は後半に入っていて、僕は前期のB2から問題なく進級してC1のクラスにいた。フランスにも、フランス語にも、フランス語学校にも慣れてしまっていたので、内容としてはB2より難しくなっていたはずなのに、感覚的にはむしろ前期よりずっと楽だった。

その頃にはかなり自然に聴けるし、話せるようにもなっていた。フランス語を勉強し始めてからまだ一年半ほどしか経っていなかった。僕はそれを、自分には才能があって、だからあまり勉強しなくても身に付いてしまうんだと、そんな調子のいいことを当時はけっこう本気で思っていた。けれどそれも許されてしまうくらい、客観的に見ても僕の成長は速かった。

はじめて会う人 (日本人でもフランス人でも) に「なんでそんなにフランス語を話せるの?」と聞かれて返答に困ることがある。「フランスに一年いたから」というのは間違ってはいないが、一年いればわかることだが、一年いただけでは話せるようにはならない。その一年の間(や前後)にした努力とか、帰ってきてからの工夫を全部無視して「一年いたから」と言うのは、いくらあの一年が僕にとって大切な意味を持っていようとも少し乱暴な気がする。だから今は、シンプルに「やることをやったから」と答えるようにしている。

僕は自分にフランス語の才能があるんだと思っていた。けれどそれは少し違った。フランス語に、語学に、向いているか向いていないかで言えば向いていたのだろう。でもそれだけでは外国語は身につかない。僕がフランス語を話せる理由はただ、勉強したからだ。今思えば僕は自分が頑張っていたことに気づいていなかったか、あるいは単にそれを認めたくなかったんだろう。

こういうことがやっと理解できるようになったのは、時は下るが、去年出会った黒田龍之助先生のおかげだ。彼の著書『語学はやり直せる!』の中に「語学に天才はいない」と題された文章がある。少し引用したい。

よく「語学の天才」というような表現を耳にするが、語学に天才はいないというのが、わたしの持論。わたしの周りには、語学の達人はたくさんいるが、天才はいない。みんな似たり寄ったりの苦労をして、また自分なりの楽しみを見つけて、なんとかやめないで付き合っている。

彼の文章を読んでいるうちに、何か肩の荷が下りたような、喉につっかえていた小骨が取れたような気持ちになった。「語学の達人はたくさんいるが、天才はいない」。僕は黒田先生のおかげではじめて、自分が頑張っていたことを素直に認められるようになったのだ。フランス語を話せるようになるために、覚えるべきことを覚え、通るべき道を通ってきただけだった。

(それに当時フランス語歴二年くらいと言っても、この数字はかなり疑わしい。中学高校と英語の勉強をしていたことをどうして無視できようか。もちろんフランス語と英語は別々の言語だが、重なる部分も相当ある。文法も語彙も根っこは通じているし文字なんてほとんど一緒なんだから、言ってみればフランス語を始める前にその本質的な部分は大体学び終えていたことになる ―― ただし発音だけは、英語の知識がほぼ役に立たない)

でも、今から数えてだいたい五年前にもなるが、そのときはそんなこともわからなかった。たぶん一番の原因は辛くなかったからだろう。「頑張る」とか「努力」という言葉には、どうしたって辛いことを我慢して成し遂げるようなニュアンスがある。そのせいで、辛くない=努力していない、という方程式が出来上がってしまっていた。辛くなかったのはひとえに、フランス語の勉強が好きだったし、楽しかったからだ。「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、好きだから、知らぬ間に努力できていた。けれどこれは今だから言えることで、当時の感覚は違っていた。努力していないはずなのにみるみるうちに上達するのだから、これは才能のおかげなんだろう…

端的に言えば、僕は天狗になっていた。でも天狗の鼻が折れるのに、それほど長く待つ必要はなかった。一年の長期留学を終え日本に帰る直前、僕はDALFのC1を受けた。DALFとは "Diplôme Approfondi de la Langue Française" の略で、唯一、フランス政府公認の世界的に有効なフランス語資格だ (B2レベルまではDELFと呼ばれる)。前述の通り当時、語学学校ではC1のクラスにいて、気持ち的にはのんびりしていたので、この調子でいけばDALFのC1もなんとかなるだろうと高を括り、とくに試験対策のようなことはしなかった。その結果、僕は見事に、合格点の50点 (100点満点) に2点及ばず落ちた。

この時の悔しさといったらなかった。試験はいわゆる4技能に分かれていて、それぞれが25点満点。受験後の手応えはまずまずで、僕はまぁ受かるだろうと楽観的に結果発表を待っていた。けれど、いちばん自信があった読解が、予想より10点も低かったのだ (落ちた原因はこれだろう)。

そういえばある日、C1クラスの読解の授業で先生にこう言われたことがある。" Vous lisez très bien, mais vous répondez mal." (あなたはとてもよく読めている、けれど答え方が悪い)。一単語も聞き洩らさなかった。多分これが、当時の僕のすべてを表していた。確かに読めていたし理解もできていた (と思っていた)。でもそれが全部、自分にとって都合のいい解釈だったとしたら?言葉は独り善がりであってはいけない。文字や単語を辿って頭の中にイメージを構築できても、そうして作った世界を人に見せられるようでなくてはならない。たぶんまだ「伝える」ということがどういうことかよくわかっていなかった (今もわかっているとは言い切れないが)。

結局僕は、語学学校の修了書以外なにも持って帰ることができなかった。

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