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東京都立大学エリカ混声合唱団 第49回定期演奏会第2ステージ「アイロニック・ブルー」―4

私は文学批評が好きだ。音楽批評は自分はよく知らない。本稿は後に演奏をだれか偉い人や偉くない人に批評してもらう時の参考資料になるかもななどと思いながら書いている。文学と音楽はどこまで一緒くたにして考えられるのだろうか。答えはない。「どこまで」という明確な正解があるわけがない。


たかが「アイロニック・ブルー」、されど「アイロニック・ブルー」。満足のいく演奏ができたとき、その録音を聞いているととても幸せな気分になることができるが、同時に「あそこミスったな…」「ここはこうした方が良かった…」という後悔もまた尽きない。だから、どんどん自信はなくなる。そしてその分、演奏を愛おしく思う気持ちが強まる。この演奏はあの瞬間にしかできなかった演奏なのだから、と。



本番

の演奏中に思っていたことをすべて文字に起こそうとしたんだけど、演奏の聴こえ方、演奏への評価に大きな影響を与えてしまう気がして、全て削除してしまった。代わりに、演奏の印象を菊間さんが端的にまとめてくださったので、引用させていただく。

(…)普段とと明らかに違う指揮者や合唱団の集中力に気圧されながら本番でピアノに向かっていた。楽譜(引用者注:『恋唄・空』)の4ページ目くらいから合唱が太い軌道に乗っていて、これは素晴らしいものになる(、絶対にそうしなければ)と確信した。

t.kikuma『エリカ混声合唱団のはなし』https://note.com/jmlslfg/n/n0dc246c29722

菊間さんの書かれている通り、定期演奏会での演奏は、これまでの練習や本番での演奏とは明らかに異なっていた。ステージの緊張感、団員の集中力、そしてなんといっても演奏の質。



伏線

決して偶然ではない。私は本番での演奏というのはやっぱり特別なものと捉えていて、特別な力が発揮できる場であると思う。私は高校時代まで陸上部だった(!)のだが、試合になると練習通りの力が発揮できないことに悩んでいた。今でも後悔が残る試合ばかりが頭に浮かぶけど、そういった当時の悩みは合唱の本番をどう迎えたら良いか、という問いに大いに役立つこととなった。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがある。本当だと思う。純粋に楽しむことがやっぱり大事だ。「努力」はそれはそれで美しいものだけど、それが結果に結びつくわけではない。「楽しむこと」これはどうか。やっぱり結果に直接結びつくとはかぎらないだろう。それなら、全ての過程を楽しめた方が良いのではないだろうか?こんなことを言ったら、アスリートの方に失礼だろうか。もちろん、努力を否定しているつもりは微塵もないのだけれど。スポーツと芸術は同じだ!ということを言いたいのではなくて、本番で成果を発揮するための原理をスポーツでの経験をもとに芸術において考えている、というくらいだろうか。妙な予防線の張り方をしていて気色悪い。でも本当に、アスリートはアスリートで繊細な感情の動きの中を戦っている。

話が逸れかけたが、畢竟私たちは合唱を楽しみたかった。でもそんなことは合唱をやっている人の多くが考えたことがあるだろう。それなら、どうやって楽しむべきか。私は、大学合唱団の醍醐味は、同じ「時間」と「空間」を共有できるということだと思う。ただ同じ歌を、同タイミング、場所で歌うのではない。まだうまく言葉にできないけれど、私たちがこうやって一つの合唱団に集結した事自体がわりと奇跡的だ。そして、同じ目標に向かって、同じ曲を、仲間たちの息遣いを感じながら歌う。それはもっと奇跡的だと思う。(♪:GReeeeN『キセキ』)私の根っこはいつだってアスリート気質だ。こんなことを書いたらあなたたちがしているのは「合唱」ではなく、もっと下劣なことをしている、と言われてしまいそうだ。私はそんな主張に対抗できる言葉を持ち合わせていないから、ただ深々と頭を垂れる。

「―1」にも少し書いたことだが、私はそういった考えにも基づいて歌う曲を選んだ。だから、歌に自分の思いを素直に乗せることは、若い団員にとっても比較的容易なことだっただろう。リハーサルで「深いところでひとつになろう」という話をしたのだけれど、その意図は歌い手に十二分に伝わっていたようで、とても嬉しかった。


それから、第2ステージ直前。団長の挨拶が行われた。それは素晴らしいもので、雰囲気を作ってくれた。私は、団長と思いを共有できていると感じられたことがまず嬉しかった。私はなかなか歌い手の「音楽」を引き出せない時期があって、その原因は、自分の思いは独りよがりだからなのではないか、と悩むことがあったが、この団長の挨拶は、まさに「自分は一人ぽっちなんかではない」と思えるものだった。そして、舞台袖で待機している仲間たち、そして、耳を貸してくれているお客さんたちにも、その思いは伝わったようだった。「アイロニック・ブルー」は完璧に準備された。あとは、思いっきり楽しむだけだった。「ごっつぁんシンギング!」である。


これはどの本番でもそうだが、指揮、正確に言えば「指揮者としての表現」は、練習のときとは違うもの、より大げさなものにしようと思っている。これは津久井さんや、都立大グリーの金川明裕先生(以下、金川先生)ら、先生方のやっぱり「パクリ」だ。もちろん、ただ大きく腕を振るうのではない。それは子どもじみている。こちらもまだうまい言葉にはできていないが、心のなかではとにかく猛烈に叫んでいる。「言葉」より前の「叫び」だ。それがあるから、腕も身体も自在に動く。練習で心が叫ばないのは、それでは「練習」にならないから、それから限られた環境でのみ心は叫ぶからである。何度も言うように、「アイロニック・ブルー」はうまく準備されていた。


本稿を書き上げるに当たって、私は精神論ばかりにすがり、そのため色んなものを蔑ろにしてきたな、と改めて思った。




(続く)

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