最後に黄金を手にするのは誰か

受験に失敗し、就職活動に失敗した。片桐がようやく一歩前進するたびに、現実は数歩先へと逃げていった。必死に生きれば生きるほどその差が広がっていき、ついには指先の遥か向こうへと消えていった。だからこそ片桐は、その後の自分の人生のすべてを捨ててでも、本物になろうと―黄金を摑もうとしたのだった。何もかもを台無しにして、一夜の花火を打ち上げたのだった。その虚しさに、その恐ろしさに、身震いした。

小川哲「君が手にするはずだった黄金について」pp.168

短篇「君が手にするはずだった黄金について」の主人公『小川』とその友人『轟木』は、二人の高校の同級生であり、個人トレーダーとして成功し派手な生活を送っている『片桐』について、「自分でもびっくりするくらい嫉妬心が生まれない」と話し、同意し合う。

小川は小説家であり、小説家に必要なものとして「強迫観念のように他人と同じことをしたくないと感じてしまう天邪鬼な態度」といった「人間としての欠損—ある種の『愚かさ』」を挙げる。

では、その小川と轟木が、肉寿司の写真をアイコンにし、数万人のフォロワーを抱えるインスタグラムアカウントの持ち主である片桐に「嫉妬心が生まれない」のは、彼らが単に「天邪鬼」、つまり人間として欠損しているからであろうか。


目の前にある指標

僕自身、『小川』のように天邪鬼的に物事をみてしまうことがよくある。SNSで多くのフォロワーを抱えている『片桐』のような人を羨ましいとは思わないし、むしろ軽蔑してしまう。

否、僕が軽蔑の対象とするのは、単にSNSで有名な人物ではなく、そこでの知名度や賞賛そのものを人間としての価値ととらえてしまうような『まっすぐな人』である。

そもそも、SNS上で有名になることがはたして難しいことなのか、僕には疑問である。SNSでの『ウケ方』『伸ばし方』なんて教科書のようなものがあって、時間とやる気さえあれば誰でもバズることができる、というのは少し言い過ぎかもしれないが、少なくとも僕はバズるよりも難しいことをいくつも知っている。

それなら、なぜ多くの人間はバズっていないのか。本当はバズりたくても、バズれないだけなのではないか。たしかに「バズっていない側」の人間にも、程度の差こそあれ、みな己がうちの承認欲求を自覚することもあるだろう。ただ彼らは、それでも決してバズろうとはしないのである。


承認欲求の最大値

「君が手にするはずだった~」の中で、片桐はトレーダーとして金融界隈の中心人物に成り上がったが、片桐が手を出していたのは、最初から勝ち目のない詐欺なのであった。

彼は金儲けをしたくてトレーダーになったわけではなく、「才能を誰かに認めてもらいたかったのだ」ろう、と小川は思う。

片桐は、才能という「黄金」をつかむことをめざした。その原動力は片桐の承認欲求にほかならない。

承認欲求には、ポジティブな方向に人を動かす力がたしかにある。しかしそれはネガティブな方向性と表裏一体である。だから人はバズろうとしないのだ。内なる承認欲求がときに天井を破ってとめどなく膨れあがり、制御できなくなることを「天邪鬼」は知っているのである。


ゼロ

人間全員がバズることを目的に生きていないということは、人間の価値はフォロワーや『いいね!』の数では測れないということだ。そして、それに気づけない片桐のような人間を、僕は心から軽蔑する。しかし、今日もXに跋扈するのは承認欲求の支配に疑問を持たない愚か者である。

どうか片桐が現代の反面教師とならむことを。




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