ハンドルを握りなおして 3人目:沙智の場合

1

『次は、みなと台公園、みなと台公園。みなと橋病院へお越しのお客様は、次のみなと橋病院入り口でお降りください』

さて、終点まで行ったら休憩だ。前方に見えてきた病院に目をやる。もう10月なのに暑さが残り、日差しも強い。

(化学療法中の人は大変だな)

この時期はカツラをかぶっているのも大変だったことを思い出す。沙智は、今はバス運転士をしているが、かつてはこのバスに患者として乗り、みなと橋病院に通っていた。



2

沙智が乳がんだと言われたのは36歳の時のことだった。教員として働く中で、職場の定期健診を受けた時に再検査になり発覚した。バレーボールで国体にも出たことがあり、風邪一つ引かなかった自分がまさかという気持ちと、ここ数ヶ月、胸の辺りにピリピリとした痛みがあったのは、このせいだったのかと妙に納得する気持ちがあった。


手術をして切ればすぐ治る、そう思っていたが、そんなに簡単な話ではなかった。抗がん剤や放射線治療を受けなければいけないと医師はそっぽを向きながら告げた。気まずそうな、嫌な役目を負ったとでもいうような顔をした医師に文句を言っても仕方がないとわかっていたけれど、言わずにはいられなかった。

「化学療法の期間中は免疫力が下がりますし、放射線治療は毎日病院に来てもらいます、仕事は調整してください」

「困るんです、私教員で、授業に穴を開けるわけにはいかないんです」

「私にそんなこと言われても。治療する気がないなら帰ってください」

「なんなんですかその言い方!」

悔しさに涙が滲む、私の事情を何もわからないでよくそんなことを言える。

その時は看護師さんが間に入ってくれた。「先生だもん、生徒のこと考えたら休めないわよね、それだけ大事なのよね」そう言ってくれた。その言葉を聞いて堰を切ったように涙が出た。


幸いだったのは、その時の沙智の職場は人員も多く、直属の上司も乳がん経験者だったため、仕事をカバーしてもらえた。また、あんなことを言っていた医師も長期休みの期間に合わせて治療を組んでくれた。治療は、今までの人生で一番辛いことの連続だった。それでもなんとかやってこれたのは、仕事を続けていたからだと思う。教壇に立っている時は自分が病気であることを忘れられた。生徒と話している時には、患者としての自分ではなく教員としての自分でいることができた。

そして、告知を受けて10ヶ月後には職場に完全復帰することができた。



3

しかし、復帰した次のタイミングで移動があった。配属先の中学校は自宅から近い事もあり配慮ゆえの人事だったのかもしれない。それは今となってはわからない。でも、とにかく、最悪の職場だった。


校長のネチネチとした話し方、副主任の思いつきでコロコロ変わる業務、保護者からの長時間のクレームがあっても我関せずの同僚。

ある時、県議会議員が選挙の点数稼ぎのつもりなのか、視察に来ることになった。前日に保護者からのクレーム対応でふらふらになっている沙智に、副主任は「議員の先生方の見学用資料作ってください、私と校長でチェックしますから」と言ってきた。


作った資料のダメ出しが5回目に及んだ時、沙智ははっきりとわかった。私はこんなことのためにあんな辛い治療を乗り越えたんじゃない。


抗がん剤を受けるたびに点滴と採血で何度も針を刺され腕に青あざが出来たこと、吐き気は薬で抑えられると言われたが、いつも胃がムカムカして給食の時間は教室から避難しなければいけないほどだった。手術の傷跡は今も時折痛むし、放射線治療を受けながら仕事を続けていた時も業務の調整が本当に大変だった。

仕事をしていた方が気がまぎれるし、何より仕事をしていればまだ自分も社会と繋がっていられるような気がしていた。それでも辛い治療を続けたのは、こんなことのためじゃない。


今までの沙智なら、理不尽なことがあっても自分が我慢すればいいのだからと黙っていた。でも、今は違う。


(こんなこと続けてたら、また病気になる)

これまでは、何があっても自分が飲み込めばいいと思っていた。でもそうやって飲み込んでいるうちに、飲み込みきれなかったものががん細胞になったのかもしれない。もちろん、こんなことは非科学的だ。それでも、自分さえ我慢すればなんて、もう思うことができなくなっていた。




そもそも、私は教員になりたかったんだろうか。



沙智の両親は教師、兄も教師という家庭だった。特に何も言わなくとも、沙智も教員になるものだと思われていたし、沙智もそう思っていた。バレーボールで指定校推薦が取れると言われても、教育学部に進学して教師になるので、と言って断った。自分が教師以外の仕事をするなんて、想像もできなかった。


実際に教師になってみると、子どもの成長を見るのは大変だが、やりがいがあった。それに、病気の時に周りに配慮をしてもらえた恩義も感じていた。だから、自分は定年までこの仕事を続けていくんだろうと思っていた。


でも、この職場で私は何をしているんだろう。視察に来た議員が一瞥するだけの資料作りのためにこんなに残業して。本当に、こんなことをするためにあの治療を乗り越えたのか。


絶対に違う、と思った。



4

次に何をするかも決めないまま、学期末で辞めたいと申し出た沙智に、病休から復帰したばかりでよくそんなことが、とまたも嫌味を言う校長を見て、自分のこの決断が間違っていなかったと思った。

両親は、何も言わなかった。厳格な父から怒鳴りつけられることを覚悟していたが、ゆっくり休んで考えればいいと言われただけだった。娘が30代でがんになり、髪が抜けた姿を見るのは、両親にとってもショックだったのだろう。


失業保険が切れるまでは、沙智はとにかくダラダラしようと思っていた。仕事を休みたくないと治療中も必死に働いてきたが、本当はこうやって休んだ方が良かったのかもしれない。闘病中にうつや適応障害になる人もいるそうだが、沙智にとっては今の方がずっと無気力だった。多分、ある種の燃え尽き症候群だった。


朝起きて、朝食を食べ、家で本を読むか、作り置きの惣菜を作る。お茶を淹れて、TVのロードショーを見ながら昼食を食べ、少し昼寝をしてから惣菜を温めて食べる。夜は図書館で借りてきた本を読むか、映画を見た。そんな日々にも少し飽きてきた時、手術後のフォロー検査のために病院に向かった。


「異常ありません、また半年後に」

「わかりました」

「先生、ほら、チラシの説明」

「あぁ、そう、そうでした」

そう言って主治医と看護師が差し出したのは、「女性限定・みなと橋病院がん患者会『リンドウ』」と書いてあった。


「うちの病院の女性がん患者さんの会があるんです。もし良かったら参加されませんか?ちょうど、治療が終わってひと段落したときに同じ境遇の人と話すのもいいんじゃないかと思いまして」

「良かったら、今日の午後にお茶会をするの、沙智さんもきてくれたら嬉しいわ」


今までの沙智なら考えておきますと答えて絶対に行かなかっただろう。患者会と聞くと、なんだかみんなメソメソして、病気のことを嘆いているような印象を持っていた。だが今は暇が有り余っている。


(行ってみてもいいかもしれない)


病院の一室で開催されていた女性の限定がん患者会は、7人ほどの女性と2人の看護師、他にも何名か病院スタッフが参加していた。最初に簡単に自己紹介をしたが、沙智はとくに話したいこともない。静かに他の人の話を聞いていようと思っていた。


「ねぇ、あなたそれカツラ?」

「え?あ、いえ、もう地毛です」

「そうよね、そうだと思ったわ」


50代くらいの女性だろうか、急に話しかけられて沙智は少し面食らったが、相手は気にせず話してくる。

「私ね、急に『あなたがんです』、なんて言われて。抗がん剤も来週から始まるからカツラ用意しろって言われたけど、そんなのどこで買えばいいかわからないじゃない?あなた主治医誰?今日の先生?あの先生なんかぶっきらぼうよね、悪い人じゃないけど。こんなこと言っちゃ怒られるかしら」


明るく笑う女性はとても病気には見えない。でも、ここではがんであることを隠す必要もない。それに、沙智が思っていたようなメソメソしている人はおらず、みんな普通に世間話をしている。この患者会は予約の必要もなく、常連の様な人もいれば、少しだけ話して帰る人と色々だ。だが、その気楽さがありがたかった。


参加している人のほとんどは自分より年上の女性だったが、自分と近い年齢の人がいることに気がついた。声をかけると、彼女は子宮頸がんと乳がんを経験したらしい。


「今日はフォローアップの検診ですか?」

「そうなんです、そこで患者会の話を聞いて」

「私もそうなんです。嫌ですよね、また再発したらって考えると。結果が出るまでいつも不安で、なんか、全てがどうでもよくなっちゃう」

「私も検査結果を待つ間が一番嫌ですね。気晴らしに車でドライブしている間だけは忘れられますけど」

「へぇ、運転がお好きなんですね」


その一言は何の気なしに発せられたものだろう。でも沙智にとっては霧が晴れるような言葉だった。

そうだ、私は運転するのが好きだった。


免許をとってすぐに中古の軽を買った。燃費はイマイチでキズと凹みもあったが、何より大事にしてきた。就職後には部活の顧問としてマイクロバスを運転するかもしれない、持っていたら便利だから、と言い訳をしながら中型免許を取った。いつかレンジローバーのような大型車を買いたい、そう思ってローンの計算をしたこともある。

仕事で嫌なことがあった時には、車で隣の県の温泉に行くのが好きだった。がんが告知された時、治療がしんどい時も、愛車の中でなら泣くことができた。


治療や仕事に追われるうちに自分は何が好きなのか、どういう人間なのか、よくわからなくなっていた。でも、意外と近くに答えがあった。




5

病院からの帰り道、いつものようにバスに乗り駅まで向かっていた時、バスの車内広告が目に入ってきた。

『バス運転士大募集!女性歓迎!普通免許があれば大丈夫!大型取得サポートあり』

いつもの沙智なら、もう少しよく考えようと思っただろう。でも、がんを経験してよくわかった、人生には限りがある。それなら、もう時間を無駄にはできない。



終点でバスを降りて、バス営業所のインターホンを押す。もう17時を過ぎていたから誰も出ないかと思ったが、「はいなんでしょうかー!」と間延びした返事が返ってきた。

「すみません、バス運転士の募集広告を見たんですが」

「えっ?!あ、ちょっと待って!」

ドタドタと音を立てて事務所のドアが開けられた。メガネがずり落ち、昭和のおじさんのようなアームカバーをした男性がドアを開けて招き入れてくれた。



「ええと、担当者はもういないから今日は面接は無理ですけど、でも説明はできますんで。ええと、運転士希望なんですね、普通免許は持ってます?」

「中型持ってるんです。あの、私教員だったので、部活の移動の時とかに使うかなって」


「あー!そうですかそうですか、先生やってたなら旅客の接客は安心ですね。大型の免許取得はね、うちで補助もありますし。とにかく今は人手が足りないから、履歴書持ってきてもらえれば大丈夫ですから」

ずり落ちたメガネを直しながら、その男性は入社後の研修の流れや福利厚生の資料を渡してくれた。話を聞きに来ただけなのに、もう入社するかのように話されて沙智は少したじろいだ。


「ニュースでもやってるからご存知でしょうけど、運転士がとにかく足りないんですよ、このままだといくつかの路線を廃止しなきゃいけないから、いやー助かります。あ、一つだけ」

引いている沙智に気づかず早口で捲し立てていた男性がじっとこちらを見る。


「運転、お好きですか?」

「え?」


「いえ、うちはいつでも人手不足なんで、猫の手も借りたいんですけど、運転嫌いな人ってこの仕事続かないんですよ。お好きですか?」


「はい、好きです。とても」

久しぶりに、嘘偽りのない気持ちが口から出た。


「あー良かった、それなら大丈夫ですよ、じゃあ明日所長に話して面接日程を決めますから、いつから出られます?ええと、研修がちょうど来月にあるから、それまでに入社してもらった方が、あー、まぁ、それはこっちで考えておきますんで!では!」



6

そこから先は、大型免許の講習、実技訓練と、あれよあれよと事が進んだ。そうして路線バスの運転士になって約5年、事故も起こさずに働いている。


特に、自分の通っていたみなと橋病院のルートを運転していると、自分と同じように抗がん剤治療中なのだろう、腕に青あざができている人を見かける。

頭にニット帽をかぶっていた人が、急にロングになったのはカツラだろう。彼らに話しかけることはもちろんない、それでも降りていく時に心の中でエールを送る。


がんになって良かった、なんていうことはできない。あんな思いはしないで済むなら、きっとそれに越したことはない。それでも、自分の人生の大きな分岐点にはなった。あのまま教員を続けていたら、この運転席からの景色は見られなかった。


『まもなく、みなと橋病院入り口。お折のお客様は、お足元にご注意の上、お降りください。お気をつけて』

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。この3人のお話は、私ががん患者さんにインタビューを行い、また自分のがん罹患体験から着想を得て書いたものです。

ご協力いただいた皆様、本当にありがとうございました。


この小説は、修士論文の研究の一環として書かれたものです。

論文も、ぜひ目を通してください。

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