【短編小説】カンヅメの歌(5)

 卒業式当日、芽衣子が伴奏を務めた『君が代』で、リナンは名札に赤い花飾りをつけた「みんな」に紛れて、仕方なく口パクをした。いくら来賓の目が気になるといっても、光村が私に頼んできたことはおかしい、冷ややかにそう思いながら。
 すると、体育館の奥側に用意されていた保護者席から、がしゃん、となにかが倒れた音が突然上がり、リナン含め、人々はそちらへ顔を向けた。ゆるく巻いた髪を下ろし、ベージュのツーピースを着たソネンが、いままで座っていたらしいパイプ椅子を倒して、周りの保護者を押しのけて来ている。
 保護者席の前へ出たソネンは、卒業生席の最後列に立つリナンの肩をぐい、と引っぱり、罵る、といってふさわしいほどの大声を上げた。
「リナン、あんた、『君が代』歌ってんの!」
 答える間もなく、リナンはソネンから平手打ちされた。濡れた洗濯物を振りさばいて、強引にしわを伸ばすような音が何度も響き、体育館内は騒然となった。芽衣子のピアノ伴奏は止まり、生徒たちは口を開けたまま呆気に取られ、黒いスーツで正装した寺崎が、脇の教職員席から緊迫した顔で走ってくる。
「どうされたんですか!ちょっと、二人とも、こちらへ」
 寺崎は、叩かれて赤くなった頬に手を当てている涙目のリナンと、同じく涙目になって寺崎を睨みつけているソネンの腕をそれぞれ掴み、二人を引きずるよう体育館から退場させた。

 生徒指導室に入った寺崎は、テーブルに向かって並んだ二脚の椅子を、リナンとソネンに勧めた。リナンはうつむいたまま寺崎もソネンも見ようとせず、頑なに口を閉ざして、座面にどっかり腰を下ろした。隣に座ったソネンは、自分のしたことのまずさを理解してきた様子で、それでも抑えられない「憤り」をどう処理していいのか、自分で戸惑っているようだった。
 進路指導用のファイルが詰まった棚に囲まれた、ほこりっぽい小部屋で、天井の灯りが三人を煌々と照らしている。いつもよりきっちり固めて艶めいたオールバックをひと撫でして、二人の向かいに座った寺崎は、両手をテーブルの上で組んだ。
 寺崎は、ソネンに会釈したのち、どこか傲慢さを感じさせる態度で喋った。
「私は、卒業生の学年主任を務めております、寺崎と申します。あなたはキムさんの、お母さんですね?さっきは、どうしてまた、娘さんにあんなことをされたんでしょうか」
 寺崎の発言は、ソネンにとって意外なものに聞こえたらしい。彼女はかっと両目を見開くと、前のめりになって寺崎に言い返した。
「あなた、ほんとに学年主任、いえ、教師なんですか?」
 問われた意味が、寺崎は分からないようだった。その、「いい歳をした」「日本人」の反応を見たソネンは、自分の確信を深めたよう息をついて肩を落とすと、毅然とした目で寺崎を捉えて、続きを語った。
「私の苗字は、キムです。在日韓国人です。そして、娘は、日本と韓国のハーフです。だから私は、娘が『君が代』を歌ったことに怒ったんです。歌うな、って私がきつく言ったにもかかわらず、娘は歌ってましたので」
 数学担当のせいか、それでも寺崎はいまひとつ事情の掴めない顔をする。ようやく顔を上げたリナンは、自分の嫌いな寺崎が困惑している姿に、「ざまあみろ」と嘲笑したくなる反面で、本当に悪いのは体面を気にした光村だろう、と思う気持ちもあった。